「予定された偶然」を生み出す
それだけではない。
ファースト・クラスは、「最高のセールス空間」でもあった。
当然だ。大企業トップなどのVIPは必ずファースト・クラスを利用するのだから、僕もそこにいれば、彼らと親しくなるチャンスが自動的に転がり込んでくるからだ。つまり、「予定された偶然」を生み出すためにも、僕は、ファースト・クラスを利用したというわけだ。
実際、僕は「雲の上」で、ソニーの大賀典雄社長、CSKの大川功社長、京セラの稲盛和夫社長をはじめ、多くの一流経営者と知り合った。マスコミで僕の顔は知られていたから、フランクに声をかけてくださる方もいたし、こちらから図々しくお声がけしたこともある。そして、機上でのコミュニケーションから、画期的な製品が生み出されていったのだ。
稲盛社長と出会ったのは、1981年秋のことだ。
シアトルから東京に帰る飛行機の中で、稲盛社長と偶然隣り合わせた。当時、稲盛社長は48歳。まさに油の乗り切った時期だった。一方、僕は24歳。2倍の年齢差だったわけだ。稲盛社長にすれば、子どもと話しているようなものだったと思うが、僕にいろいろ質問をされて、熱心に耳を傾けてくださった。
僕は、問われるがままに、いろいろなことを話した。
そのなかで、特に、稲盛社長が興味を持たれたのは、ハンドヘルド・コンピュータ、つまり、手で持ち運べるサイズのコンピュータのアイデアだった。当時のパソコンは、すべてデスクトップ型。まだノート・パコソンもない時代だったから、世界中を探しても、ハンドヘルド・コンピュータなどなかった。
自分で言うのもなんだか、実にイノベーティブなアイデアだったのだ。
稲盛和夫氏に「雲の上」で売り込む
僕が、このアイデアを得たのは、その1年以上前のことだ。
ある日、シアトルのオフィスで、「ウォール・ストリート・ジャーナル」を読んでいたら、ソニーの広告が出ていた。ソニーが「タイプコーダー」という電子筆記マシン(携帯ワープロ)を発売するという広告だった。
早速、「タイプコーダー」を買って、いろいろと触ってみた。ハンドヘルドの小さなサイズで平面だったが、4行の液晶表示装置を内蔵していた。入力したデータを磁気テープに保存して、モデムでデータを送信できる設計だ。主に、新聞記者に使ってもらうことを意識した製品のようだった。
画期的な製品だと思ったが、日頃、コンピュータを使っている僕には、少々物足りなかった。ビルにも「タイプコーダー」を見せると、「これがワープロじゃなくて、パソコンだったらいいのにな」という点で意見が一致した。だったら、マイクロソフトBASICを使って、自分で作ってみようと考えた。
アイデアはいくらでも湧いた。
「プリンターを内蔵する」「記憶メディアの装着」といったハード面から、「ワープロ機能」だけではなく「スケジュール管理機能」「住所録」などの機能も盛り込むといったソフト面まで、あの時点で考えうる限りの技術を使って、「僕ならこうしたい」というアイデアをまとめ上げた。
そして、そのアイデアを、稲盛社長にぶつけたのだ。「やってみませんか?」と言うと、「ぜひやってくれ」と稲盛社長は快諾。すぐに京セラの担当役員を紹介してくださって、具体化に向けて走り出した。まさに「即断即決」だった。
もちろん、このアイデアは他のメーカーにも売り込んでいた。
最初にアイデアを持ち込んだのは、IBMのプリンターを通じて付き合いのあったエプソンだった。そ
して、エプソンの優秀なエンジニアの力で、1982年にA4サイズのハンドヘルド・コンピュータが完成。「世界初のハンドヘルド・コンピュータ」として話題になったこともあり、25万台を超えるヒット商品となった。
ただ、「A4サイズ」というのは少々大きかった。
ハンドヘルドではなかったのだ。「もっと小さなコンピュータを作りたい」と思った僕は、”小型化”でしのぎを削っていた電卓メーカーに作ってもらおうと考えて、シャープとカシオに売り込みに行った。
ところが、この2社には、にべもなく断られてしまった。シャープには「こんなんうちでも作れるわ」と言われ、カシオには「ソフトが高すぎる」と言われた。門前払いされたも同然で、あれは悔しかった……。
ならばと、僕はキヤノンに売り込みに行った。すると、山路敬三副社長は、僕のプレゼンが終わって
3分くらいで「やりましょう」と言ってくださった。これには、気合いが入った。そして、キヤノンのポケットコンピュータは1983年に完成。これもヒットした。