IT黎明期に日本のみならず世界を舞台に活躍した「伝説の起業家」、西和彦氏の初著作『反省記』(ダイヤモンド社)が出版された。マイクロソフト副社長として、ビル・ゲイツとともに「帝国」の礎を築き、創業したアスキーを史上最年少で上場。しかし、マイクロソフトからも、アスキーからも追い出され、全てを失った……。20代から30代にかけて劇的な成功と挫折を経験した「生ける伝説」が、その裏側を明かしつつ、「何がアカンかったのか」を真剣に書き綴ったのが『反省記』だ。ここでは、名経営者・稲盛和夫氏との出会いによって、世界的なイノベーションを生み出すチャンスを掴んだ経緯を振り返る。
人間には「独りで考える時間」が必要だ
僕は、20代前半でマイクロソフトの仕事を始めた頃、ユニークな立場にあった。
アスキーの副社長と、アスキー・マイクロソフトの社長を兼務していたが、マイクロソフト米国本社でも、当初、アスキーからの出向の形で平社員として働いていたのだ。
ところが、NECの「PC-8001」の成功によって、僕のもとには国内メーカーから次々と仕事が舞い込むようになった。その結果、1979年には、マイクロソフトの売上の4割近くを僕が稼ぎ出すようになった。
これは、ビル・ゲイツにとっても想定外のようだった。当時、ビルが来日したときには、お金を節約するために、ホテルオークラの僕の部屋に一緒に泊まったものだが、そのときにも、数百万ドルの取引を決める電話が僕のところに一晩中かかってくるものだから、彼は目を丸くして驚いていた。
結果を出せば評価する――。
これがアメリカだ。僕は、マイクロソフト米国本社で、あっという間に出世していった。1979年には極東営業担当の副社長、翌80年には企画担当副社長から新技術担当の副社長になり、1981年にはボードメンバーとなった。当時のボードメンバーは、ビルとポール・アレンと僕の3人だけだった。
つまり、この頃、僕はアスキー、アスキー・マイクロソフト、マイクロソフト米国本社の3社でトップマネジメントに加わっていたということだ。アスキーのことは、ほとんど郡司さんや塚本さんにやってもらっていたとはいえ、20歳そこそこの若造にとっては重圧でもあった。
というか、とにかく考えなければならないことが多すぎた。しかし、日本でもアメリカでも仕事に追いまくられているので、落ち着いて考えを巡らせる余裕などない。僕は、「独りで思考を深める時間」を渇望していた。
そこで、僕が活用したのが「雲の上」だった。
当時の僕の生活は、日本が3分の1、アメリカが3分の1、残りの3分の1が飛行機の上だった。そして、機上では「独りの時間」を確保できる。そんなときに、自分の頭がいちばんアクティブに働いたので、その時間を「考えること」に当てることにしたのだ。
だから、僕はいつも、ゆったりとした時間が過ごせる「ファースト・クラス」を利用した。お金にシビアなビルの取り巻きは、これを、あまり面白くなく思っていたようだ。しかし、いつも忙しなく動き回っているから、飛行機の上くらいはゆったりと寛ぎたいという思いがなかったといえば嘘になるが、それ以上に、僕が求めていたのは「独りで思考を深める」ことだったのだ。