その関本が、82年10月9日号の「週刊ダイヤモンド」で、“日本人の独創性”をいかに高めるかをテーマに話している。当時の関本にとって最大の関心事なのだという。80年代初頭の日本は、欧米の工業技術水準に追い付き、実用化の面では欧米を追い越したともいえる分野も増えてきた中、これからやることは自分たちで考え出さなければならないという“壁”にぶち当たっていた。
「これからいよいよ、われわれは未踏の地へ向かっていかなきゃいかん」というのが関本の状況認識で、「日本人は模倣はうまいけれども、独創性がないじゃないかといわれている。しかし、私たちにも独創性が本当にあるんだということを示したい」と関本は語っている。
関本の主張を端的に言えば、教育を変えるということにある。追い付き追い越そうというときには、「落ちこぼれをなくして平均的な人間をつくる」という教育が有効だったが、これからは、特別な素質を持った異端者を育てることが大事な時代になるというのだ。そのためには、誰もが早いうちに自分の才能の向くところへ進む教育の機会を与えられるべきで、努力するにしても素質のあるところに集中特化すべきだと説く。そして、個人個人にどんな素質があり、どう働き掛ければその素質を伸ばしていけるかを可視化していくために、データベース技術を駆使すべきと、自身の事業領域に話をつなげていく。
「なぜ日本にスティーブ・ジョブズが生まれなかったのか」という問い掛けは、今でも盛んになされ、往々にして教育問題に行き着く。本当に天才を育てたいのなら、子供の能力を最大限に伸ばすことに重点を置くべきなのだが、依然として日本の教育は全体の平均を上げることに終始しているとの批判は根強い。
そうした教育風土から生まれた集団行動的なものづくりが、日本の高度成長の原動力になり、米国の製造業を効率性で圧倒したのは確かである。しかし、そんな日本に敗れた米国は、むしろ“個人技”で突き進み、集団から外れた異端者たちが既存の価値観を覆す創造的破壊を実行していったわけだ。日本経済が最も調子がよく余裕があった80~90年代に、ジョブズを育てるような風土をつくっておくべきだった。実際、今回の関本のように、当時からすでにそうした声は上がっていたのだから……。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
私たち日本人にも独創性が
あるということを示したい
日本人の独創性をもっと伸ばすことについて、いま、みんなが組織的に考えなければならない時期ではないかと思います。貿易摩擦のからみで、日本人は模倣はうまいけれども、独創性がないじゃないかといわれている。しかし、私たちにも独創性が本当にあるんだということを示したい。
私は1963年に当時の通信研究開発メッカであったベル・テレフォン・ラボラトリーへ行きました。いまよくいわれているデジタル通信は、私どももやり始めていたのですが、端的に言うと、当時は持てる研究者の人数にしろ、研究テーマのレベルにしろ、月とスッポン、1桁レベルが違っていました。
それから18年たった1981年、82年になると、民生用のデジタル通信はレベルが合いました。いままで独創性がないと悪口も言われているけれども、二兎を追う者は一兎をも得ずで、一つでもオリジナルなものを出してやろうと思ってやっていたら、この18年でいまのところまで来なかったでしょうね。
――まねした方が早かったということですか。