自分にしかできないことを見つけ、情熱を注ぐ若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられているのか。今回は、父親の失読症をきっかけに、文字を代わりに読み上げる眼鏡「オトングラス」を開発した島影圭佑さん。自らが抱える課題に、自らが“作ること”で寄り添う「当事者兼作り手」を生み出す活動にも取り組んでいます。(聞き手/ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
義務教育で“社会化”され
想像力がしぼんでいった
――2020年10月から、新潟県見附市に拠点を置いています。島影さんが生まれ育った街ですね。
はい、大学へ入るまでここで育ちました。父親は昔は農協に勤めていて、母親は保険会社の仕事や書道教室もやっていましたが、基本的には専業主婦です。
父はどちらかというと天然で、何か始めると熱中するところは子供っぽくて父親らしくない感じです。絵を描かせると結構うまいんですが、本人はそれに気付いていないんですよね。母は真面目というか、そんな父に代わって島影家を経営してくれていました。どちらも、普通の田舎の人です。
4人きょうだいで、兄が2人とその下に姉がいます。一番上の兄とは16歳くらい離れていて、姉とも6、7歳離れています。だから小さい頃は1人で遊ぶことが多かったし、兄たちはけんか相手というより親代わり。授業参観にも兄が来てくれたこともあります。
両親も、4人目の僕のことは“ノールック”で育てていました。勉強しなさいと言われたことはないですし、経済的に豊かな家庭ではなかったのでお金の負荷がかからない範囲でですが、やりたいことをやれる環境にありました。
――どんな子供でしたか。
幼稚園に行きたがらず、他の子と遊ぶより、白い紙の上で想像を形にしたり、レゴブロックで立体物を作ったり、物語を作ったり、自分一人のワールドの中で何かを作って遊んでいたい子供でした。
小学校もその延長線上にあったのですが、好きだった絵や物語作りでは周りになじめないから、集団の中でいかに自分の居場所をつくるかを考えて、周りを笑わせるキャラになりました。お笑い芸人のまねをするというよりは道化のように笑いを作る感じです。
家でも周りは皆年上ですし、その場をちょっと明るくするようなことを楽しんでやっていました。