資本主義も社会主義も
新たな階級をつくっただけ
残念なことに、資本主義が夢想した(階級からの)自由と平等の実現は幻想に過ぎなかった。経済発展は機会均等といった形式的な平等さえもたらさず、それどころか資本家は経済の力を自分だけのものにして私腹をこやし、ブルジョア階級という新しい階級をつくって、彼ら以外が階級を上ることを事実上不可能な状況まで作り出してしまったのだ。
その問題を解消し、今度こそ本当の自由と平等を手に入れようとして登場した社会主義も、これまた同じ結果に陥った。共産主義革命が起こっても、権力、地位、資本家(や貴族)から収奪した革命の果実は、共産党の特権官僚に移転しただけ。社会主義は、共産党内部の階級差から目をそらさせるため、その活動を労働者の社会的、経済的地位の向上に限定した。そうなると根本的な社会改革にはならず、労働組合主義として資本主義の枠内での会社や組織での組合運動にとどまることになる。結局、社会主義も社会に真の自由と平等をもたらす思想ではなかったのだ。
以上が1930年頃のヨーロッパの状況である。「経済人」の概念をもとにして、自由と平等が実現されるはずだった2つの思想(資本主義と社会主義)とそれによる社会秩序は行き詰まった。大衆はこれに絶望した。既存の社会秩序が正当性を欠いて、「戦争」と「失業」という2つの魔物に対抗できなくなる。しかも、混乱を収めるための新たな秩序は現れず、ますます混沌が極まった。そして、
「大衆は、世界に合理をもたらすことを約束してくれるのであれば、自由そのものを放棄してもよいと覚悟するにいたった」
のである。
資本主義も社会主義もダメ
そこに登場した「ファシズム」
人間は弱い生き物だ。社会がぐちゃぐちゃで先行きが不透明になることに耐えられず、「パワハラ」的に自由を奪われてもいいから、強い力で自分たちを導いてくれる体制を求める。そこに現れたのが「ファシズム全体主義(以下仮にファシズムという)」である。ファシズムは個人の自由を徹底的に制限し、前向きな信条は何もなくとにかく過去はすべて――経済人モデルも含めて――完全に否定する。
「ドイツとイタリアのファシズム全体主義において、もっとも重要でありながら最も知られていない側面が、個々の人間の位置と役割を、経済的な満足、報酬、報奨ではなく、非経済的な満足、報酬、報奨によって規定していることである」
つまり、経済の力を使って自分の力で自由になることは否定され、弾圧されたのだ。人間は経済の力で生きているのではないことにされ、ファシズム政権が人々の社会的な役割や位置づけを完全管理した(ここでは詳述しないが、ユダヤ人は血統がどうのというよりも、お金もうけ、経済人の象徴として弾圧されたのである)。