現金にハニートラップ、記者が情報機関の取材で守るべき「一線」とは記者は情報機関と関係を持つ際に、「協力者」として引きずり込まれそうになることがある。道を踏み外さないための心得とは(写真はイメージです) Photo:PIXTA

文芸春秋に入社して2018年に退社するまで40年間。『週刊文春』『文芸春秋』編集長を務め、週刊誌報道の一線に身を置いてきた筆者が語る「あの事件の舞台裏」。1980年代、列島を揺るがしたスパイ「レフチェンコ」への取材、そして、私の身に起こった情報機関とのやり取りをお話します。(元週刊文春編集長、岐阜女子大学副学長 木俣正剛)

スパイ「レフチェンコ」が語った
社会党とソ連の疑惑

 1980年代は、まだ冷戦の真っ最中。いわゆるスパイものの取材もしたし、逆にスパイに誘われ(?)たりする危険もありました。

 私の最初のスパイ取材体験(産業スパイではなく、国家のスバイ・諜報組織の取材)は、日本の政界に深く入り込んだソ連(現ロシア)のスパイ「レフチェンコ」でした。レフチェンコは1982年に米国へ亡命し、米国下院情報委員会で日本の政界、産業界、官僚に多くのソ連のエージェント(協力者)がいることを詳細に明かしました。その中身はあとで日本でも公表され、本も出版されました。

 ソ連が金銭などの見返りに日本の重要な情報を得ていたこと。かなり有名な政治家や官僚の名前が挙げられていたこと。それぞれの協力者にコードネームがつけられていたとも明かし、日本全体に衝撃を与えました。もっとも、金銭授受を認めた一部の記者以外は、ほとんど立件はされていません。

 私がレフチェンコ氏に出会ったのは、騒動が終わり、レフチェンコ氏が証人保護プログラムによって米国で過ごしている時期でした。会ったのは、ワシントンのホテル。取材目的は、当時世間の耳目を集めていた、週刊文春の連載キャンペーン「パチンコ疑惑」の主役、土井たか子氏とソ連の関係について聞きたいというものでした。