マーケティングの鬼才が業界初を連発

 葉緑素(クロロフィル)や天然チクルの使用など、商品開発におけるマーケティングセンスで鬼才ぶりを発揮した重光だが、その真骨頂は販売プロモーションにあるといえるかもしれない。

 52(昭和27)年5月、「カーボーイガム」と「グリーンガム」の発売に合わせて、重光は自身の愛車ビュイックを業界初の宣伝カーに改造するという思い切った手を打った。車体中央の天井部分に金色に輝く王冠という人目をひく派手な装飾を取り付け、業界イベント、問屋や商店会の特売などへ全国行脚した。

「バーブミントガム」発売の際には、それまでガムは厚紙に一つずつ貼られて売られていたが、ロッテは「勝負大当たり」と書かれた箱に詰めて売った。業界初の箱詰め販売である。さらに「グリーンガム」では、箱にクロロフィルの効能を印刷して売るという業界初の販売方法を展開し、これが大ヒットの要因となった。

 続く翌53(昭和28)年には、当時の日本文化放送協会(現・文化放送)を通じて、自社の広告モデルを募集する「ミスロッテ」応募イベントの開催を仕掛けた。当時流行していたミスコンを敏感に察知し、宣伝に活用したのだ。企業のミスコン開催は珍しく、新聞は「ガム会社の美女探し」といったタイトルで囃し立てた。これで、世間に「美女=葉緑素=グリーンガム(当時はフーセンガム)=ロッテ」という連想を刷り込んだのだ。

 プロモーション戦略においても重光は、会社の規模が大きくなろうとも現場主義を貫き、最前線で指揮を執り続けた。例えば、ハリスと肩を並べるほどの大手になった60(昭和35)年に発売された「クールミントガム」。当時のパッケージには5羽のペンギンとクジラ、そして空には三日月が描かれていたが、実はこのイラストは重光が考案し、自ら描いたものだという。前出の手塚は当時の重光の姿をこう明かす。

「重光社長が私に『南極から見た月はどちらから欠けるんだろう』と尋ねてくるくらい、イラストを真剣に考えていた」

 まさしく「神は細部に宿る」である。重光も、このイラストは強く記憶に残っていたようだ。

「『クールミント』は、デザインに可愛いペンギンをあしらい、しゃれたデザインとともに『クール』なイメージをアピールした」(*3)

 重光の鬼才ぶりは流通対策でもいかんなく発揮される。再び、50年代に話を戻そう。

 前述した52(昭和27)年の新製品投入と大胆なPR戦略で、「攻撃こそ最大の防御である」と悟った重光は地方の取引先の実態調査を兼ねて、有力代理店や特約店を訪問する販売網拡充に乗り出した。このとき、重光は営業担当に「噛む」ことの効用を説くなど、「ガムの伝道師」的なスタイルに徹するよう指示した。

「現在に於いては如何なる業種のセールスマンも行うことであるが、当時としては最初のことであった。この積極政策が次の飛躍への機会を自ら創りあげていき、群雄割拠のガム製造業界から他を抜いてロッテ・ハリスの両雄時代を築きあげる基礎となった」(*4)

 さらに54(昭和29)年の「スぺアミントガム」では、問屋や小売りを対象に「ガム発売記念謝恩特別セール」を展開した。ガムのボール(箱)1つに1枚の抽選券が配られ、最高賞のロッテ賞(各1名)の賞品は白黒テレビ、電気蓄音機、高級カメラ、オートバイ、末等(1万人)でも石鹸6個とタオル2枚という大盤振る舞いを展開したのである。当時のガム市場は、全国菓子協会によれば54億円で、ハリスが20億円近くで、ロッテは10億円。すでにライバルの背中が見えるところまでは来ていた。このキャンペーンは大好評で、流通対策に自信を深めた重光は56(昭和31)年に、特約店を中心とする「ロッテ会」を結成し、全国流通網構築に本腰を入れて取り組み始める。

 この2年後の58(昭和33)年には、当時のラジオ東京テレビ(KRT、現・TBS)で「ロッテ歌のアルバム」のテレビ番組提供が始まり、ロッテの全国区レベルでの知名度は揺るぎないものとなっていく。

*3 藤井勇『ロッテの秘密』こう書房、1979年
*4 『ロッテのあゆみ』只野研究所、1965年