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明治新政府の財政改革と
リストラを担う

 パリ万博の視察とヨーロッパ各国の訪問を終えて、1868年11月に帰国します。この時、すでに江戸幕府はなくなっています。

 ええ。主君である徳川慶喜は静岡藩主になっていました。多くの家臣は、大政奉還後は静岡藩に仕えればよいと安穏に考えていましたが、渋沢は、新政府はいつ藩体制を廃止するかわからないと危機感を覚えていました。もしそうなれば、恩人である慶喜は路頭に迷ってしまう、だから自分は事業家になって金を稼がなければならない、と。

 そこで、藩内に「商法会所」を立ち上げます。フランスに倣い、政府から与えられた日本初の政府紙幣「太政官札」を担保にして商品を買い付け、経済活動を活発化させる金融商社で、民間から出資を募った合本組織、すなわち株式会社の走りです。しかし、新政府の意向に反するとして、わずか7カ月で常平倉(価格変動を防ぐために穀類を貯蔵した倉のこと)と改名させられ、廃止に追い込まれます。

 ですが、このことで渋沢の優秀さが明治政府に伝わることになり、大蔵大輔、いまで言う財務大臣の大隈重信が、大蔵省で働かないかと声をかけてきました。ちなみに、大蔵省は、1872年7月、民部省(現在の経済産業省)と合併し、民部大蔵省という巨大な官庁になっていました。

 渋沢は当初、自分の主君は慶喜であり、明治政府ではないと固辞しましたが、大隈に「それは間違っている」と言い返されます。いわく、「主君のために最善を尽くすのが君の使命だとすると、慶喜は明治政府に恭順を示したのだから、明治政府、つまり国家のために尽くすことこそが、主君の望みであろう」。渋沢は理詰めには弱いので、あっさり大蔵省に入省します。ただし、慶喜と初めて会った時と同じく、条件をつけます。

「世の中は大混乱の内にあって、何が何だかわからない状況にある。まずは問題点を洗い出すことをすべきである。そのためには問題提起を専門とする部局を設置しなければならない。これを仮に改正局とでも呼ぼう。私をそこで働かせてほしい」と。    

 大隈はそれを聞き届け、渋沢は改正掛となり、当時日本が抱えている問題点をすべて洗い出しました。何しろ大蔵省と民部省が合併した組織ですから、やろうと思えば何でもできます。洗い出しの後、問題を解きやすい順に並べ、難易度の低いもの、たとえば度量衡(計量に用いる長さ〈度〉・容積〈量〉・重さ〈衡〉の基準を定めること)の統一、郵便制度や駅逓制度の整備などは他人に任せて、難易度の高いものは自分の手元に残し、じっくり検討することにしました。

 最難関は、財政の立て直しでした。1871年つまり明治4年まで、日本は中央集権制ではありませんでした。江戸幕府は地方分権です。たとえば、自然の多いオレゴン州のような藩もあれば、ニューヨークみたいな藩もあるといったように、それぞれの藩に土地柄や特徴があり、財政を含めて独自に藩政を行っていました。明治政府は、こうしたバラバラのものを統合し、統治や財政を中央集権化しなければならない。もちろん、言うは易く、行うは難しです。明治の元勲たち、大久保利通、大隈重信、伊藤博文、井上馨、そして反対するだろうと思われた西郷隆盛も賛成し、一挙に廃藩置県へと進んでいきます。

 ただし、財政赤字と余剰人員の問題が浮上します。

 各藩の資産と債務を一つにまとめたところ、全体では債務が上回っている。この状況を改めるには財政改革しかない。とはいえ、制度を変えるには金がいる。さてどうするか。渋沢は、その解決策こそフランスで知った債券であると思い至ります。

 まず、それぞれの藩の借金を3種類に分けました。大昔の借金については返済不要とし、少し前の債務は無利子で返す。そして、最近の借金については、きちんと利息をつけて返す。このように取り決め、そのために「金禄公債」という債券を交付しました。政府が発行した債券には信用がある。それを各藩に配る。それで債務問題をめでたく解決し、このおかげで廃藩置県はうまくいきました。

 次に「秩禄処分」、いわゆるリストラに取りかかりました。新政府になっても、元武士たちはこれまで藩からもらっていた俸禄を政府からもらい続けており、これが財政を圧迫していました。そこで、現代同様、希望退職者を募ります。具体的には、4年分なり、6年分なりの俸禄を払って武士を辞めてもらう。ただし、まとまったお金はありませんから、そこでもまた債券を使います。これは、渋沢が大蔵省を辞めた後に実行されます。

 その後、大久保利通との対立などがありますが、いよいよ民間事業に乗り出します。

 あいにく大蔵省では、歳入と歳出の差額を債券償還の元手にするというアイデアが理解されませんでした。そこで、退官して、フランスで見た通りに、まず第一国立銀行(現在のみずほ銀行)を設立します。

 世の中にお金を循環させるために銀行をつくり、債券市場も整備する。株式会社をつくるために、株式を売買できる証券取引所を設立する。債券にしろ株券にしろ、発行するには洋紙が必要ですから、抄紙会社(現在の王子製紙)を創業します。その後は、お雇い外国人や留学生などを引き入れて、さまざまな事業に着手していきます。

 とはいえ、株式会社をつくろうにも、日本のどこもかしこもお金がありません。そこで、株式を発行する際の振り込みに債券を使ってよいことにしました。廃藩置県と秩禄処分によって債券があふれているわけですから、雨後のたけのこのように、株式会社がたくさん生まれました。

 要するに、金のない無の状態から有を生じせしめたわけです。渋沢は、「金があったら何かできるなどという人間はばかだ、金がないところで事業をするのが資本主義の真骨頂であって、それには信用しかない」という趣旨のことをよく言っています。

 渋沢は、絶妙のタイミングでフランスを訪れ、短期間で資本主義が定着していく様を垣間見ました。帰国してからは新政府に加わり、旧体制の改革、法制度の整備に尽力し、その後は野に下り、これもサン=シモン主義のやり方に則って、産業を興していきます。

 野球に例えれば、ルールをつくり、審判しながらプレーもする、言わば「プレーイングアンパイア」の役割を果たしたのです。だからこそ日本でも、フランス同様、短時間で資本主義がテイクオフできたのです。

 ただし、もしも渋沢が強欲な守銭奴で、アニマルスピリットの極みのような、自分さえ儲かればよいという人間だったなら、日本は大変な国になっていたかもしれません。それは、アジアや南米、アフリカの開発途上国のように、一部の権力者とその取り巻きだけに富と権限が集中し、彼らによって政治も経済も支配されるという最悪の構図です。