SNSのフィルターバブルが生み出す
新しい“分断”

 前回の記事「鬼滅、あつ森理解できる?『老害』と非難されないための3つの処方箋」では、SNSで自分にとって好ましい情報だけが選択的に流れてくる「フィルターバブル」や、特定の組織・コミュニティ内でしか話や能力が通用しない「たこつぼ化」からは、少しだけでもはみ出ていた方が、見える世界が広がるという話をしました。

 私のSNSのタイムラインと、年齢や性別など、属性の違う別の人のタイムラインとでは、表示される情報がまるで違います。このことがSNSでのフィルターバブル、そして新しい“分断”を生み出しています。

 SNSで分断をつくる人たちには、2通りのパターンがあるように見えます。ひとつは悪意を持ってデマを発信する人。もうひとつが、違う考えの人に非常に厳しく接してしまう人たちです(後者の方が圧倒的に多いのですが)。こういう人たちにとっては、フィルターバブルで囲まれた「自分たちが見えている範囲だけ」が世界の全てになっています。その世界で正しいと思うことしか聞かない、あるいは聞こえなくなってしまっているのです。

 FacebookもTwitterもさまざまな工夫を凝らして、正確でない情報や差別的な発言が無条件に広められるのを防ごうとしています。しかし、特定のユーザー層が集まれば、議論には一定の方向性が出てしまうのは避けられないことです。同じニュースに対する反応でも、Yahoo!ニュースで投稿されるコメントと、ネット系技術者を中心に人気のある「はてなブックマーク」に投稿されるコメントとでは、全く傾向が違うことだってあります。

 最近のSNSでの分断を見ていると、プラットフォーマーはもはやこの分断をコントロールできていないのだろうと感じます。さらに、最近の米国大統領選やコロナ禍が、SNS上の分断をますます広げるきっかけになったように思います。

インターネット上に情報を出すことは
全て尊い行為

 Facebookでは、投稿先を友人限定か全体に公開するか選択することができ、さらに仕事の関係者と個人的な友人など、細かく設定して投稿の公開先をコントロールする人もいます。ですから、ある程度はクローズドなプラットフォームだと言えるでしょう。

 一方Twitterでは、いわゆる鍵つきアカウントを運用する人もいますが、基本的には投稿したものは全てオープンになります。投稿が自分が見てほしいと意図している人ではない人の目にも触れるので、Twitterの方がより炎上しがちです。ブログなども同じ理由から、炎上しやすい傾向にあります。

 炎上は、悪意のある人が起こすというよりは、「正しくはこうすべき」「この文のここが問題」と言いたい人による、何かを正そうとする動きによって起こることがほとんどです。ほとんどフォロワーがいないアカウントや、普段アクセス数が少ないブログをわざわざ探し出してくるその熱量には、ある意味、感心さえします。