ノーベル生理学・医学賞を受賞した生物学者ポール・ナースの初の著書『WHAT IS LIFE?(ホワット・イズ・ライフ?)生命とは何か』が世界各国で話題沸騰となっており、いよいよ3月9日に日本でも発刊された。
ポール・ナースが、生物学について真剣に考え始めたきっかけは一羽の蝶だった。12歳か13歳のある春の日、ひらひらと庭の垣根を飛び越えた黄色い蝶の、複雑で、完璧に作られた姿を見て、著者は思った。生きているっていったいどういうことだろう? 生命って、なんなのだろう?
著者は旺盛な好奇心から生物の世界にのめり込み、生物学分野の最前線に立った。本書ではその経験をもとに、生物学の5つの重要な考え方をとりあげながら、生命の仕組みについての、はっきりとした見通しを、語りかけるようなやさしい文章で提示する。
養老孟司氏「生命とは何か。この疑問はだれでも一度は感じたことがあろう。本書は現代生物学の知見を十分に踏まえたうえで、その疑問に答えようとする。現代生物学の入門書、教科書としても使えると思う。」、池谷裕二氏「著名なノーベル賞学者が初めて著した本。それだけで瞠目すべきだが、初心者から専門家まで読者の間口が広く、期待をはるかに超える充実度だ。誠実にして大胆な生物学譚は、この歴史の中核を担った当事者にしか書けまい。」、更科功氏「近代科学四百年の集大成、時代の向こう側まで色褪せない新しい生命論だ。」、さらには、ブライアン・コックス(素粒子物理学者 マンチェスター大学教授)、シッダールタ・ムカジー(医師、がん研究者 コロンビア大学准教授)、アリス・ロバーツ(人類学者 バーミンガム大学教授)など、世界の第一人者から絶賛されている。発売たちまち5万部を突破した本書の発刊を記念して、内容の一部を特別に公開する。

フランス革命、断頭台の露と消えた悲劇の科学者の驚きの発見Photo: Adobe Stock

ギロチンと不慮の出合い

 発酵の科学的研究は、現代化学の始祖の一人である、一八世紀のフランス貴族で科学者のアントワーヌ・ラヴォアジエから始まった。彼にとっても、科学全体にとっても不幸なことに、非常勤で収税官をしていたせいで、フランス革命中の一七九四年五月に、ラヴォアジエは断頭台の露と消えた。

 その政治的な吊し上げ裁判で彼に判決を下した裁判官は、こう宣言した。「共和国には学者も化学者も必要ない」。

 われわれ科学者は政治家によくよく気をつけねばならない! 残念ながら政治家、特に大衆に迎合しがちな政治家は、裏づけに乏しい自分の見解に専門知識が真っ向から対立する場合、「専門家」をないがしろにする傾向がある。

 ギロチンと不慮の出合いをする前、ラヴォアジエは発酵のプロセスに夢中になっていた。彼は「発酵は初めのブドウジュースに含まれる糖が、できあがったワインのエタノールに変換される化学反応である」と結論づけた。発酵をこんなふうに考えた人は、それまで誰もいなかった。

 その後、ラヴォアジエはさらに踏み込んで、「発酵素」と呼ばれるものがあって、それはブドウそのものに由来し、化学反応で中心的な役割を果たしているようだと提案した。とはいえ、ラヴォアジエは、発酵素の正体をつかむことはできなかった。

 およそ半世紀後、工業用アルコールの製造者たちが、自分たちの製品を台無しにしてしまう現象の謎を解明してくれないかと、フランスの生物学者で化学者のルイ・パスツールに依頼し、すべてが明らかになった。

 甜菜のビートパルプ(=甜菜から糖分を絞ったあとの残りかす)を発酵させるとき、うまくいかずに、エタノールではなく酸っぱくて不快な酸ができてしまうことがある。それがいったいなぜなのか、彼らは知りたがった。パスツールは探偵顔負けのやり方で、この謎に挑んだ。

 彼は顕微鏡を使って決定的な証拠を手に入れた。首尾よくアルコールができた発酵用の大樽の沈殿物には、酵母細胞が含まれていた。酵母は明らかに生きていた。酵母のいくつかには芽が出ており、活発に増殖していることを示したからだ。

 一方、酸っぱくなった大樽を調べると、酵母細胞が一つも見当たらなかった。この単純な観測結果から、微生物の酵母こそが、あの得体の知れない「発酵素」、つまりエタノールを作り出す鍵となる物質にちがいないと、パスツールは提案した。酸っぱくなった大樽の方は、他のなんらかの微生物、おそらくもっと小さな細菌が、酸を作ってダメにしてしまったのだ。