それでいいなら私のほうが子どもになりたい

 夫とささいなことでもめて仲直りしたあと、なんだかもやもやして「なんでそんなに子どもっぽいの?」と夫の脇腹をつついたことがある。

 すると、夫はぶすっとつぶやいた。

「男はそもそも子どもだって言うだろ……」

 あきれてしまった。この言葉があれば、自分勝手な行動をいつでも弁解できるというのだろうか。何か言う気力がなくなりそうになるのをすばやく立て直して、きっぱり言い返した。

「私だって子どもだよ! もういい、私もやりたいようにやる! 私が子どもになるから、あなたが大人をやってよ。私をなだめて、解決してよ!」

 ずっと昔のことで記憶も曖昧だったけれど、子どものときのように、駄々をこねて、足をばたばたさせることも忘れなかった。夫はあきれたように笑いながら、結局は降参した。

 子どものころは確かに何でも許してもらえた。そこまで記憶をたどらなくても、20歳ごろまでは内心、自分が失敗するのがわかっていたし、社会に出たての私に、誰も完璧など求めていなかった。「初めてなので」「よくわからなくて」。そう言ってもまだ、若さや経験不足という理由で許された。

 早く大人になりたかったし、大人になったいまは大人としての人生にとても満足しているけれど、もし都合よく選べるんだったら、私もやはり子どもになるほうを選びたい。子どもだというだけで、どんな理屈も通って、何でも許されるんだったら。

 これに限らず「そもそもそういう人だから」という言葉を聞いて、肯定的に感じることはあまりない。そもそも一つのことに集中するとまわりが見えなくなるタイプなの。そもそもわがままだってよく言われるほうだから。自分のことをそんなふうに言う人たちには返す言葉がない。だからわかってくれということ?

 私は直接的でも間接的でも、世間の人々に対するとき、ものわかりの悪いほうだとは思わない。

 でも、身勝手であることに堂々と理解を求める人たちに対してまで、ものわかりのよさを発揮しようとは思わない。包容力や大人の態度は自分でそうしたいと思ったときに見せるもので、あたりまえのように求められて示すものじゃない。

(本原稿は『フェミニストってわけじゃないけど、どこか感じる違和感について──言葉にならないモヤモヤを1つ1つ「全部」整理してみた』からの抜粋です)