たとえば先日、ある専門職で同じ業界内での転職を希望している50代の方は「長年お世話になった上司が定年退職し、他にもお世話になった人が定年間近になってきたので、他の会社に移ろうかと考えている」と話していました。

 この人のお話からは、職人的な要素が強く、徒弟制度的な色合いが濃い世界でメソッドや考え方を教わってきたこと、そうした中で自分を高く評価し引き上げてくれた上司がいなくなり、どうすればよいのか戸惑っている様子がうかがえました。

 というのも、「今後何をやりたいのか」「これからの世の中の変化と、その中で生かせる自分の強みは何か」といった質問に対し、一般論的な答えしか出てこなかったからです。少なくとも自分なりに自身のキャリアについて思考を深めたり、リアリティーをもって考え続けてきたりした形跡は感じられませんでした。

 この人にとっては「上司からの評価」がほとんど全てでした。「誰とやるか」に偏って仕事をしてきた人はその「誰」がいなくなったとき、どうすればよいのか分からなくなってしまうようです。これは非常に危険な状態です。

「会社の言う通り」働いたのに
はしごを外されるという悲劇

「誰」が特定の個人ではなく、会社であるケースもあります。

 少し前の日本企業では、「白か黒かは会社が決める。お前は言われた通りやっていればいい」というマネジメントスタイルが珍しくありませんでした。どこに行くかは会社が決めるから、お前は言われた通りにやればいい。個人の意見など聞いていられないというわけです。

 私が在籍していた時代のリクルートでも、少なくとも私のいた部署ではこのようなマネジメントが行われていました。トップの上意下達で、「四の五の言わず、言われた通りやりなさい。評価は数字がすべてである」という世界でした。指示に疑問が湧いてきても、ぐっと押し殺してやるしかありません。

 実体験があるのでよく分かりますが、そうした世界で働いていると自分はどうしたいという意思や、物事の良しあしを考える力が急速に衰えていきます。環境に適応するには思考停止するしかないからです。

 しかしリクルート事件が起こり、業績が悪化してみんな夢から目が覚めると、会社は突然「君たちはどうしたいのか」と言い出しました。会社や上司の言う通りにやってきたのに、いきなりそんなことを言われても戸惑うしかありません。

「誰」にせよ「会社」にせよ、他人に判断を預け思考停止して働く人は、はしごを外されると何もできなくなってしまいます。特に40代から50代くらいの自分を殺して会社の言う通りにやってきた人たちは、このような状態に陥っているケースが珍しくないと思います。

 今、少なからぬ企業で中高年のリストラが行われています。これは会社に言われた通りに働き、自分で考える能力が次第に衰えてしまった人が給与の高い中高年になった途端、時代の変化も相まって経営の重荷になっているという皮肉な状況と言えます。