あっという間にゴールデンウィークが終わった。そろそろ4月はじめの「やる気」がジワジワと低下してくる頃合いだろう。いわゆる「5月病」シーズンの到来だ。とりわけ今年、社会人になったばかりの新入社員は、不慣れな環境にさまざまな悩みや不安を抱えはじめているのではないだろうか?
17万部のベストセラー『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』の著者であり、一組織人として働く読書猿さんは、「ビジネスシーンで生き抜く知恵は、すべて社会科学の中に詰まっている」と言う。なぜなら、社会そのものが「知」の集合だからだ。知識の多くは、それぞれの集団に埋め込まれたまま、明文化されていない。それらを学ぶための手法が、社会科学をはじめとする学問というわけだ。
そこで、会社組織にありがちなお悩みを読書猿さんにぶつけてみた。第2回は「会社の変なカルチャーに馴染めない問題」について。(取材・構成/藤田美菜子)

朝礼でラジオ体操、非合理な会議…会社から「おかしな慣習」がなくならないワケPhoto: Adobe Stock

意味不明なカルチャーは、集団の「パスワード」である

――新しい会社に入ってしばらくたつと、さまざまな「マイナス面」が目につくようになりますよね。社会人になりたての新入社員は「どう見ても仕事ができない人が大きな顔をしているんだけど、会社ってそういうものなの?」と違和感を抱くこともあるだろうし、転職組は「前の職場と仕事のやり方が全然違うんだけど……(しかも前の職場のほうが効率的!)」といった戸惑いを覚えることもあると思います。あるいは「朝礼でラジオ体操をやるなんて、時間のムダじゃない?」など、職場の習慣に対して抵抗を覚える人もいるのではないかと。

読書猿 組織、ひいては社会とはそもそも理不尽な場所です。外側から見ると、「意味がわからない」としか言いようのない慣習や価値観がまかり通っているのが当たり前なのです。

 それは、集団があるところには「儀礼」があるからです。儀礼研究は、宗教学の伝統から生まれましたが、人類学や社会学の研究は、「祝祭」や「経済活動」「集団内外の闘争」そして「社交」や「挨拶」など直接には宗教と無関係の活動についても儀礼的な要素を発見していきました。

 儀礼には複数の機能がありますが、重要なもののひとつがその人が本当に仲間であるかを見分ける「パスワード機能」です。集団を維持するのに必要なのは、仲間でもないのに内側に入り込んで、利益にタダ乗りしたり、和を乱したりする人間を察知することです。そこで役立つのが儀礼です。儀礼は、一定の手順どおりに行われますが、少しでも手順から外れると、それに慣れ親しんだメンバーの怒りや悪感情を引き起こす。

 加えて、このパターン化・形式化された行動は、その集団のメンバーにとっては当然に思えるけれど、集団外の者にとっては、しばしば風変わりで無意味で非合理に見えます。大真面目に実行するには、集団外の者には心理的に負担が大きい。おまけに儀礼の多くは煩雑で、習得するコストも高い。このために、集団にちょっとだけ参加しておいしいところだけ持っていく、いわゆるフリーライダーを抑制するわけです。

 その意味では、集団の外側から見たときに「なんでこんな意味のないことをやらなくてはいけないの?」と感じられるような儀礼ほど、パスワードとしては強力です。外部の人間にも「こんな場合は当然こうするよね」と容易に想像がつくような儀礼は、「1111」のように脆弱なパスワードなのです。

 こうした、「外から見ると意味がわからない」儀礼は、認知宗教学では「反直感性」というキーワードで説明されます。たとえば「卵が落ちたら割れる」というのは「直感的」に推測できることです。一方、「船が航海に出る前に、お酒の瓶を舳先(へさき)で叩き割って航海の安全を願う」というような儀礼については、直感では理解できません。酒瓶をぶつけたところで、船が物理的に強化されるわけではありませんよね。したがって、この儀礼は「反直感的」と言えます。

 直感的に推論できるものと反直感的なものを比較すると、どうやら反直感的なもののほうが、記憶に残りやすい。意味がないもののほうが、びっくりするからです。それが人間の儀礼を支える基盤ではないかと考えられています。

 まとめると、儀礼とは本質的に「わけがわからないもの」なのです。そしてこれが、新人が会社に入って直面する理不尽の正体のひとつでもあります。「なぜ書類を右肩から2cm2cmの場所で留めなくてはならないのか? どこで留めたって同じじゃないか」というのは「直感的」な反応です。しかし、儀礼というものは直感では理解しようがないのです。

誰しも「儀礼」と無縁ではいられない

――儀礼がない、先進的でフラットな組織で働きたいという若い人は多いのではないかと思いますが……。

読書猿 どれほど「合理的」で「先進的」な集団であっても、何かしらの儀礼はあります。外から見ると意味がないことを愚直に守りつづけることが、メンバーの行動と相互行為を予想可能な範囲にとどめ、その集団を成り立たせるプラットフォームになっているからです。

「自分は儀礼などというものにとらわれない、自由な人間だ」と自負している人でさえ、儀礼と無縁ではいられません。たとえば、その人が話している「言語」も儀礼のひとつです。

 まっさらな状態で動物の犬を見て、「イヌ」という言葉を思いつく人はいないでしょう。犬と「イヌ」のつながりは、反直感的なものです。しかし、日本で犬のことを「イネ」と呼べば笑われるでしょうし、発音がヘンでも笑われる。誰もが犬のことを律儀に「イヌ」と呼びつづけているのは、日本語という言語を儀礼的に習得しているからです。それによって、違う言語を話す人間を「部外者」と見なし、集団を守っているわけです。

 繰り返しになりますが、集団に所属している限り、儀礼と無縁ではいられません。まずはその認識を持ちましょう。その儀礼に対して「なぜそんなことになっているんだ」みたいなことを延々考えても意味がないのです。

「非合理だ」と切り捨てることもまた、非合理である

読書猿 あくまで一例ですが、ある外資系企業に勤めていた方が、老舗の日本メーカーに転職したという話を聞いたことがあります。

 その人は、転職先のカルチャーにどうしてもなじめませんでした。前職の外資企業では、上司の指示は絶対で、上司からのリクエストに部下が反論するなどということはありえなかったと言います。しかし、転職先の日本企業は全体的にのほほんとした雰囲気で、朝礼でラジオ体操をするところから一日が始まる。彼が部下に送った指示メールがスルーされることもしばしばだったとか。

 その人は、口うるさく部下たちに注意をしていたそうなのですが、状況は変わりません。結果として、メンタルに不調をきたしたのは部下ではなく本人のほうだったそうです。儀礼を無視して集団に加わろうとすることの難しさを感じさせるエピソードです。

――そんな非合理的な組織にでも、自分を合わせなくてはならないのでしょうか? 組織が変わるべき、という考え方もありそうです。

読書猿 たしかに、私たちは学校でもビジネスの場でも表立っては「合理性は正義だ」と教えられてきました。しかし、儀礼論の立場からすると「なぜ非合理なものをそこまで忌み嫌い迫害するのか」という問いが立てられます。

 そもそも、何かを二分割して、一方を聖なるもの、もう一方を邪なるものとすること自体、きわめて宗教的です。そして少しでも外れるとまるで何かを冒涜されたかのような「義憤」が生まれるというのも儀礼の特徴です。ある意味、非合理なまでに非合理を叩いているわけです。このような視点を持てば、たとえば「朝礼でラジオ体操をやるなんて我慢ならない!」と切って捨てる自分もまた、別の儀礼に従っている非合理な存在だということに気づくはずです。

人類学者の気持ちになって、儀礼に「参加」してみよう

――「おかしな儀礼」でうつになったり、病んでしまわないために気を付けることはありますか?

読書猿 大切なのは、自分が無自覚に身につけてしまっているものも含めて、儀礼の操り人形にならないことでしょうか。そのための具体的な行動として私がおすすめするのは、(逆説的に聞こえるかもしれませんが)不合理に見える「しきたり」や「謎ルール」に直面したら、少しだけ、いわば「儀礼的」に(笑)、参加してみることです。

 異文化の調査を仕事にする人類学者はまさに、このようなアプローチを取ります。人類学者が遠い外国の奥地を訪れて調査を行うとき、現地の村落で出された食べ物は、たとえ自分の感覚では「ちょっと食べるのは無理」と感じてしまうものでも、まさに礼儀として口にするのが第一歩。そうしないと、その集団に参加できないからです。

 見慣れない食べ物を供されたり、ラジオ体操への参加を要請されたりするのは、ある意味でその集団の儀礼に「招待」されているわけです。ラジオ体操なら、周りを観察すれば、誰だって初見でも周囲に遅れながらでも真似できるでしょう。何もいきなりバック転をやれなどと無理難題を言われているわけじゃないし、骨折したり健康を害する危険もない。そこで「合理性」で壁をつくって、感情的に反発しまうのは、その人自身の一種の「信仰」の問題です。

「反発を感じるのは異文化なんだから当然だ」という人類学者の気持ちになれば、どんな集団にも臆することはありません。あくまで調査視点なので、本気でラジオ体操を楽しもうなどと気負う必要はない。そこまでやれば、逆に「それはやりすぎ」と言われるでしょう(笑)。「誰もそこまで本気でやってないから」と。

 儀礼のいいところは、このように模倣と試行錯誤を繰り返しながら集団に入っていけるところです。最初に「非合理だ」と切り捨ててしまうと、その先へは進めません。しかし、少なくとも参加の意思を見せている人間に対しては、最初はうまくできなくても、中の人間にも「この人なら受け入れてもいいかな」という心理が発生します。すると、「実はこうやってやるんだよ」「実はこういう経過があってこうなったんだよ」といった具合に「次の扉」が開きます。

 そうして奥に進んでいった先で、「こんなやり方はやっぱり変だ」「やっぱりこの集団にはなじめない」と思ったら、そのときに去るかどうかを決めればいい話です。儀礼にまともに参加もしないうちから「なじめない」と決めつけるのは、あまりにも時期尚早なのではないでしょうか。