日本医療伝道会衣笠グループ病院グループ相談役で日本ジェネリック医薬品・バイオシミラー学会代表理事の武藤正樹医師は長年にわたり、そうした課題の解決への歩みをけん引してきた。

 ジェネリック医薬品に関心を持ったきっかけは、1997年のアジア通貨危機だったという。国立医療・病院管理研究所(現在は国立保健医療科学院に併合)で医療政策の研究に従事していた武藤医師は、通貨危機がアジアの医薬品流通に与えた影響を調査する目的で98年、インドネシアに赴いた。

「行ってみて、目を見張りました。インドネシア政府は賢明で、半官半民のジェネリック医薬品を国内で製造する公社3社と流通させる公社1社を持ち、広大なインドネシア全土へのジェネリック医薬品の普及を強大に推し進めていたのです。日本ではまだ、ジェネリックなんて言葉さえ、知られていない時代です。

 おかげで、医薬品の輸入が途絶えた状況でも、インドネシア国民はなんとかしのぐことができていました。

 インドネシアはとても大きな国です。人口は2億人以上、国土は1万4000以上の島からなり、その広がりはアメリカの東海岸から西海岸に匹敵する大きさです。私が調査に訪れた当時、医薬品費は国民1人当たり年間わずか6ドル。その貴重な6ドルを有効に活用して全インドネシア国民に医薬品を持続的に供給するには、安価なジェネリック医薬品がなくてはならないものでした」

 ジェネリック医薬品の価値を痛感した武藤医師は、日本でも必ず、ジェネリック医薬品を必要とする時代が来ると確信。帰国後、啓発活動を開始し、2007年には日本ジェネリック医薬品学会を立ち上げた。

「もちろん日本とインドネシアでは全く医療事情が異なります。しかし、貴重な医療費を大切に使うことや、全国民がこれからも医薬品の恩恵を等しく受けるためにジェネリック医薬品が欠かせないという事情は、現在の日本にも当てはまります。特に700万人の団塊の世代が高齢化して医療費の負担が大きくなる2025年へ向けて、日本でもジェネリック医薬品の普及は急務だと思いました」

「日本にも家庭医を広めたい」
NYで学び、帰国

 もともとは外科医。アメリカのテレビドラマ『ベン・ケーシー』を見て主人公の脳外科医に憧れ、医師を志した。

 転機は医師になって10年目。当時の厚生省のプログラムで家庭医について学ぶため、ニューヨークのブルックリンにある病院に留学した。

「目からうろこでした。その頃の日本は単科の研修しか行われていなかったので、僕も外科しか知りませんでした。でも留学先はいわゆるスーパーローテーションで、外科ばかりでなく内科、救急、産婦人科など各科を回りました。在宅医療も経験しましたね。

 印象的だったのは、ある高齢女性の自宅を訪問したときのことです。患者さんが転倒したというバスルームを見に行くと、老年科の指導医の先生が『なんて暗いんだ。電球を見てみろ』と言うのです。『あの電球は50セントぐらいだろう。でも、もしこのおばあちゃんが転んで大腿骨頚部骨折を起こしたら、何ドルかかると思う? 人工関節を入れればおそらく1000ドルか2000ドルぐらい。明るい電球に変えれば転倒を防ぐことができるだけでなく、医療費も安くて済むはずだ』と。家庭内事故の予防を考えるのも医師の仕事なんですね。

 さらに先生は冷蔵庫を開けて『どんなものを食べているの?』とか、薬箱を開けて『薬はちゃんと飲んでいるの?』とか、生活に関わる部分までケアしていました。

 病院に来た患者さんを治療するだけじゃない、生活の中での医療が本当に新鮮でした」