2019年末、世界経済フォーラム(WEF)は、1973年に発表した「ダボス・マニフェスト」を「ダボス・マニフェスト2020」と改定し、「企業は、顧客、従業員、地域社会、そして株主などあらゆる利害関係者の役に立つ存在であるべき」とする設立の理念をあらためて強調した。WEFを主宰するクラウス・シュワブは、設立時の1971年当初より、マルチステークホルダーのコンセプトを支持していたという。
翌2020年1月に開催された50回目のダボス会議では、「ステークホルダーがつくる持続可能で結束した世界」を掲げた。また同年9月、WEFの企業委員会である国際ビジネス委員会は、「ステークホルダー資本主義測定指標」を発表した。この指標は、「人」「繁栄」「プラネット」「ガバナンス」の4つの領域において、21の中核指標と34の拡大指標で構成されており、地域や業種を問わず適用可能だという。
実は、WEFに先立つ2019年8月、主要なアメリカ企業が参加しているビジネス・ラウンドテーブルも、株主第一主義を批判し、「ステークホルダー資本主義」への転換を宣言した。この豹変に、資本市場のみならず、各国の経済界は驚きを隠せなかった。何しろ、株主主権、経済合理性を追求する急先鋒こそ、アメリカ企業だったからである(とはいえ、眉に唾をつける向きは少なくない)。
こうした問題への感度が高いヨーロッパでは、2018年1月、欧州委員会内に設置された「ハイレベル・マルチステークホルダー・プラットフォーム」の第1回会合が開かれ、SDGsのさらなる推進が確認された。なお、同プラットフォームは、2016年に提唱されたものである。
こうした流れは、そもそも2008年のリーマンショック後に、草の根的に発生したものである。たとえばホール・フーズ・マーケットを創業したジョン・マッキーが提唱したコンシャス・キャピタリズム(理性ある資本主義)をはじめ、人が他人の利益のためにのみ仕事をする「信任」という概念を核とした「フィデュシャリー・キャピタリズム」、地域社会や人と人のつながりを重視する「コミュニティ・キャピタリズム」、あらためて道徳や倫理を尊重する「エシコノミー」(“ethics” と“economy”の合成語)、「目的」を軸とした「パーパス・ベースト・キャピタリズム」などが挙げられる。
さて、日本発のマルチステークホルダー論といえば、近江商人の「三方よし」であり、原点といわれる。このように言うと、欧米のマルチステークホルダー論はらせん状に進化しているものの、三方よしなどの考え方は静的で、時代とミスマッチしていると指摘する出羽守(でわのかみ)の声が聞こえてくる。なるほど、SDGsよろしく、個別具体的な基準や指標がつくられ、たしかに実践的である。しかし、こうした進化の果てには、たとえばバランススコアカードなど、かつて流行した経営管理指標のように、チェックボックス経営、経営の思考停止を招きかねない。
アリストテレスが生きた時代の哲学者たちは、「倫理的な問題も幾何学と同じように考えることが可能である」とうそぶいたそうだが、欧米のマルチステークホルダー論はまるで同じように聞こえる。
また、さまざまなステークホルダーを重視することで企業価値が上がるという耳当たりのよいことがいわれているが、マルチステークホルダー経営の成功を投資家の利益増によって測ることは、株主第一主義のパラダイムをかえって強化することになるのではないかという批判もある。
三方よしは、たしかに曖昧かもしれないが、方向性は示されている。また曖昧だからこそ自由度があり、自分たちが成し遂げたい、実現させたいという自在性にも富んでいる。したがって、どのように三方よしを同時実現させるのかは、自分の頭で考え、実践していくことで見えてくる。まさしく800年の積み重ねから導き出された実践知といえよう。
近江商人研究の第一人者であり、以前の三方よしブームの時も冷静かつ本質的なメッセージを発信されていた末永國紀氏に話を聞く。
近江商人の源流
編集部(以下青文字):近江商人の研究を始めた動機について教えてください。
末永國紀 KUNITOSHI SUENAGA
1943年、福岡県生まれ、佐賀県出身。1973年、同志社大学大学院経済学研究科博士課程修了。京都産業大学経済学部教授、カナダのブリティッシュコロンビア大学客員研究員などを経て、同志社大学経済学部教授。1988年より近江商人郷土館館長を兼ねる。著書に『近代近江商人経営史論』(有斐閣、1997年)、『近江商人』(中公新書、2000年)、『近江商人学入門』(サンライズ出版、2004年)、『日系カナダ移民の社会史』(ミネルヴァ書房、2010年)、『近江商人 三方よし経営に学ぶ』(ミネルヴァ書房、2011年)、『近江商人と三方よし』(モラロジー研究所、2014年)が、また共著に『変革期の商人資本――近江商人丁吟の研究』(吉川弘文館、1984年)があり、『近江商人学入門』の英訳監修本にラーリ・グリーンバーグ訳『THE STORY OF JAPAN’S OHMI MERCHANTS-The Precept of Sanpo-yoshi』(出版文化産業振興財団、2019年)がある。
末永(以下略):私と同じ佐賀県の出身で、『近江商人 中井家の研究』(雄山閣)という著作で学士院賞を受賞された、江頭恒治(えがしらつねはる)先生という方がいらっしゃるのですが、私はその内弟子で、先生の近江商人研究を受け継いだのが始まりです。
私の問題意識は、長寿企業の秘密を解き明かすことでした。日本には創業100年以上の企業が数万社あり、創業200年超となると世界の4割を占める。そうした長寿企業が、なぜ日本に多いのか――。私は、その答えを導き出せるのが近江商人ではないかという仮説を立てました。実際研究してみると、彼らは利益よりも永続性を目的としており、私の仮説は一つ証明されました。
近江商人といえば、天秤棒を担いだ姿が浮かんできますが、いつ頃に登場したのですか。
全盛期は江戸時代ですが、いまから約800年前、鎌倉時代にはすでに初期近江商人として活動していたことが史料から判明しています。商人といっても、狭義の商いだけではなく、江戸期になると漁業、製造業や金融業も手がけるようになります。日本の歴史に商工業者が登場してくるのは中世ですから、近江商人はその草分けと言ってよいでしょう。
近江商人の原点は、卸(おろし)行商、当時の言葉で「持ち下り商い」と呼びました。つまり、上方の商品を地方へ運び、その地の商人たちを相手に卸販売し、帰りには地方の物産を仕入れ、上方に戻って売りさばくのです。行きと帰りの双方で利を得るので効率性が高く、鋸(のこぎり)のように交互に押したり引いたりすることに例えて「鋸商い」とも呼ばれます。
彼らは、近江国を本拠地としながら、事業領域を国外に求めた「他国商い」の商人でした。商いの元手金が限られていた初期には、商品を天秤棒に担いで目的地との間を単純に往復するものでした。しかし、商いの規模が大きくなると、出先の各地方で庄屋、旅籠(はたご)、寺社などと馴染みになり、牛馬や船を使って商品を先に送り付け、自身は身の回りのものだけを天秤棒に担いで現地に出かけ、着いたら商品を仕分けし、土地の商人を集めて商談を進める、というやり方に移行していきます。
資産がさらに増えると、目星をつけた要地に複数の出店(でみせ)を開きました。商品の輸送や保管場所であり、言わば行商の前線基地です。出店がうまく回り始めると、今度はそこから枝店(えだみせ)を広げていきました。
出店や枝店が増えると、相互に商品を融通し合ったり、情報を交換したりするようになります。すると、商品の需給をたくみに調節しながら、価格差を利用した、より利幅の大きい裁定取引もできるようになります。これは「諸国産物廻(しょこくさんぶつまわ)し」と呼ばれ、近江商人たちは豊かな富を得るようになります。
なかには、十数もの出店を抱えていた例も珍しくありませんでした。そのような多店舗展開は、複数の商人が出資額に応じて損益を負担する「乗り合い商い」という共同出資で成り立っていました。