突然、告げられた進行がん。そこから、東大病院、がんセンターと渡り歩き、ほかにも多くの名医に話を聞きながら、自分に合った治療を探し求めていくがん治療ノンフィクション『ドキュメントがん治療選択』。本書の連動するこの連載では、独自の取材を重ねてがんを克服した著者の金田信一郎氏が、同じくがんを克服した各界のキーパーソンに取材。今回登場するのは、悪性リンパ腫から復活したアナウンサーの笠井信輔さん。笠井さんは、「いい意味で、自分が会社の歯車であると思い、休む勇気を持つことが大事」と語ってくれました。(聞き手は金田信一郎氏)。

笠井信輔アナ、悪性リンパ腫から復活「昭和の価値観捨てて休む勇気を」会社を辞めて独立した途端、悪性リンパ腫になったアナウンサーの笠井信輔氏。著書『生きる力 引き算の縁と足し算の縁』では当時の経験を赤裸々に語っている。

――笠井さんの悪性リンパ腫の闘病生活は、ちょうど私の食道がんの闘病期間とも重なっていました。私自身、笠井さんのブログに支えられて抗がん剤を5クールできたんです。

笠井信輔氏(以下、笠井) それはお互いに大変でしたね。金田さんはその上、食道がんとなると、手術もあったんじゃないですか。

――実は、土壇場で放射線治療に切り替えました。でも、笠井さんが「がん経験者」の先輩として、先行して順調に治療が進んでいる様子には勇気づけられました。笠井さんは、現在はもう健康で、がんになる前と同じように見えますね。

笠井 まったくその通りなんです。いわゆる「完全寛解」という形で、自分の体からがんが一切ない状況が1年以上続いています。

 今では普通に働いていて、担当医からは「今、新型コロナウイルスに感染しても、重症化することはない。もし重症化するとしたら、一般の人と同じ確率」と説明を受けています。ただそれでも、2ヵ月に1回は経過観察として、血液の検査をしています。

 先日の検査も非常に成績が良く、免疫の数値も通常の状態に戻りました。抗がん剤治療を受けたので、免疫の値は半年以上戻らなかったんです。それが、「じきに戻る」と先生が言っていた通りに戻ってきました。

 今だと(白血球の数値が)4500ぐらいです。通常だと4000~5000の間くらいなんです。退院時には数値が(基準値より)低くて、それから半年ぐらいかけて(基準値下限の)3000を超えるくらいに戻っていきました。

――私はまだ基準値ギリギリですから、気をつけないといけませんね。

笠井 私も、自分では元気だと思っていても、白血球の数値は低い状態が続いていました。金田さんはコロナに気をつけないといけませんね。でも、じき戻ってくるという先生の言葉通り、段々と戻ってくるものです。

――時間軸を笠井さんががんに罹患した頃に巻き戻してうかがいます。笠井さんはフジテレビのアナウンサーとして30年も活躍し、「とくダネ!」のキャスターも20年以上続けていらっしゃいました。自分が「休む」ということは、考えたことがなったんじゃないかと思います。

笠井 確かに、ほとんど休んだことがありませんでした。1回だけ、声帯ポリープの手術で2週間休んだことがあります。それだけですね。番組に自分が出ていないと、視聴者のみなさんに「いつもと違う」と思われるんじゃないかという気がして。でも、妻の出産や子どもの入学式は休んできましたが。

 ただ最近思うのは、「自分がいないと仕事が回らない」っていう考え方は古い(笑)。いい意味で、「自分は歯車なんだ」って思うことが大事なんです。だからこそ、「とくダネ!」では、(メインキャスターの)小倉(智昭)さんも夏休みを取っていた。小倉さんが休んでいる間は、私が代わりに司会をして、それでも番組は成り立っていました。そんなものなんです。

「自分がいないと、この仕事は続かない」なんて思うのは、昭和の時代の価値観です。「自分の仕事は誰にでもできるんだ」ということを、認識しなくちゃいけないんです。

 これは、病気に関しても必要な考え方だと思います。今、がんは、早期発見すると1週間や10日間で退院できるんです。手術の技術が進んでいるわけです。さらに、通院しながらがん治療をする人だってたくさんいる時代です。

 それなのに、「忙しいから検査に行かない」「仕事が空けられないから無理だ」なんてグズグズしていると、あっという間にステージが進行して、本来なら腹腔鏡手術で済んだのが、開腹手術になってしまったりします。

 こうした考え方を改めないと、自分のためにもなりません。結局、仕事でより大きな穴を開けちゃうわけですから。私自身、やっぱり無理をしすぎていたと思っています。
(2021年7月28日公開記事に続く)