中野友禮
 ソーダ工業――アルミニウムなど金属の精製に使われたり、製紙業ではパルプの溶解や漂白、化学繊維やせっけん・洗剤の原料として、あるいは上水道・下水道や工業廃水の中和剤など多様な分野で用いられる苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)や、水の殺菌・消毒などに使われるさらし粉(次亜塩素酸カルシウム)、ガラスの製造原料となるソーダ灰(無水炭酸ナトリウム)……。このような幅広い基礎工業薬品を製造するソーダ工業は国内産業になくてはならない分野である。

 日本のソーダ工業は、1914年の第1次世界大戦までは多くを輸入に頼っていたが、大戦景気でソーダ製品の需要が膨らみ、参入が相次いだ。京都帝国大学理学部で中野式食塩電解法(電解ソーダ法)を開発し特許を取得した中野友禮(1887年2月1日~1965年12月10日)が、20年に設立した日本曹達もその一つだ。しかし、18年の終戦後は反動で戦後恐慌が発生。船出は決して順調ではなかった。それでも中野はソーダ類だけでなく非鉄金属、製鋼、染料、人絹パルプ、油脂工業など多角化を展開し、31年の満州事変以降は軍需産業の一角として拡大、日曹コンツェルンと呼ばれる財閥グループに成長させた。

 第2次世界大戦後、日曹コンツェルンはGHQ(連合国軍総司令部)の指定する15財閥に数えられ、解体されて中野は日本曹達を追われる。一方「ダイヤモンド」誌は、東京大空襲による社屋焼失で45年4月11日号をもって半年間の休刊を余儀なくされていたが、45年11月に復刊を遂げた。「復興号」と題した同号から中野が「これからの事業」という連載を開始している。連載はその後、「産業科学」「科学随想」などと題名を変え、実に55年まで10年間続いた。

 今回紹介するのは、二酸化炭素と地球温暖化をテーマに書かれた46年8月21日号の記事だ。中野の記事によると、終戦直後の当時にはすでに、二酸化炭素の増加で温暖化が進んでいることが指摘されていたようだ。地球の歴史において二酸化炭素の増加は火山活動によるものが大きいが、「火山のほかに、生物の呼吸、燃焼、有機物の発酵、酸化に加うるに、人類の工業活動による石炭の燃焼があり、昨年のごとき戦災には、大火災があったりして、大分炭酸ガスが増加する」と、中野は人為的な影響を指摘する。そして「子供のときより暖かくなったような感じの人が多いだろうし、確かに氷山は減じたようである」という。

「子供のときより暖かくなったような感じ」を終戦直後の人々が持っていたという記述は、なかなか新鮮な発見である。この翌週の記事でも、中野は二酸化炭素について触れているので、次回も続けて紹介しよう。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

強き者ばかりが
残るわけではない

1946年8月21日号1946年8月21日号より

 南極に氷の解けるころ、エビが発生する。“見渡す限り”くらいの形容詞では言い尽くせぬ。無数に発生するエビを食う鯨が氷の間に隠見する。それを捕るために世界の鯨船が集まる。

 鯨捕りでは、スウェーデンが断然群を抜いていた。それへ日本が割り込みかき回そうとしたとき、戦争が起こり、捕鯨船は航空母艦に化け、海底へ沈められた。図南の志をむなしくしたものである。