生存権は「頑張っている人に与える」ものではない

 DaiGo氏の一連の発言を受け、ネットでは批判の声が上がったが、中には違和感を感じるものも多かった。というのも、憲法が保障する生存権の無差別平等という本質を理解していないことが露呈しているものが散見されたのだ。

 中でも多かったのが、「働きたくても病気やけがで働けなくなる人がいる」などの例を挙げ、「有能で、頑張っていても不可抗力で困窮することはある、そのために生活保護制度がある」と主張するものだ。

 もちろん、これらの発言をした人たちの中に、特定の背景の人を排除する意図がないことは分かっている。しかし一方で、あえて病気などの不可抗力によって働けなくなるという限定的な事例を出した人が多かった事実を見るに、潜在意識の中に、生活保護を受けてしかるべき人とそうでない人の線引きがあるように思えてならない。

 生活保護制度は生存権を保障するために存在する。何らかの事情で生活が困窮した人は誰でもその制度を利用することが認められているし、その事情は本来問われないはずだ。生存権を語る上で、能力の有無や頑張っているかどうかに言及することは、無差別平等という本質をかえってゆがめてしまう危険性をはらんでいる。

 DaiGo氏の学びの受け入れ先として話題になったNPO法人抱樸も、声明の中で以下のように言及している。

「『頑張っているか、いないか』が命の価値づけの基準となってはいけません。自立支援という事柄と生存権や命の普遍的価値の事柄は別の事柄です。第一に命の普遍的価値が確立されなければ、自立支援は成立しません。これが逆転してしまう事態、すなわち「自立できる人だけ支える」ということになってはいけません」(引用元URL