人権の議論に同情や共感は要らない

 もう一つ思うことがある。自分や他者が同情、共感しやすい事例を引き合いに出して感情に訴えるやり方も賢明ではない、ということだ。同情や共感、といった感情論には危ない側面があるからだ。

 私は、弱者や社会的困難を抱えた人を取材することが多いライターだ。その実感として、同情・共感を集めやすい属性というのは確実に存在する。共感を得やすいトピックは社会に山積する問題の中でも光が当たりやすい。

 しかし、同情できる属性こそ救われるべきだという思考は危うい。その理屈でいくと、普段から差別を受けやすい人や、優先されづらい人は排除されるからだ。たとえば、若者の貧困に比べて中年の貧困は話題となりづらい。外国籍の人の問題は、自分たちとは異なるからと無視されやすい。精神障害者の問題は、そうでない人から理解されづらい。

 人は同情・共感できない属性を差別し、排除を肯定する。同情・共感できないのには、想像力の欠如もあるが、そもそも感情の前にバイアスや社会的偏見(スティグマ)がある。

 人権の議論に共感や同情などいらない。どんな事情があろうと、全ての人に生存権はあり、社会保障制度を利用する権利がある…ただ、それだけである。

「明日は我が身」「自分もその立場になるかもしれないという想像力が欠如している」という指摘もかなり多かったが、これにも違和感を覚える。あえていうなら、自分が一生なり得ない属性に対しても、想像力を持つべきであり、差別してはならない。

 私たちに必要なのは、明日は我が身などといった限定的な視座ではなく、自分が想像力の及ばない属性に対しても人権があることを認識し、いかなる差別も許されないことを自覚する、その最低限の良識であるはずだ。