「仲間」を作らなかった菅氏、「下克上ストーリー」の限界
菅氏は、政界入りした時、自分が将来首相になると思っていなかったはずだ。
日本の政界は「逆学歴社会」だ。世襲のお坊ちゃま・お嬢さまを、一生懸命勉強して東大・早稲田・慶応などを卒業した非世襲の政治家や官僚が支える構図である(第233回)。
菅氏も、自分は世襲議員を支える側とわきまえていただろう。政治改革法案をつぶしたことで有名な小此木彦三郎氏や「大乱世の梶山」と呼ばれた梶山静六氏という「武闘派」を政治の師匠とし、菅氏は「汚れ役」となって成り上がる道を選んだ。
菅氏は、小泉純一郎元首相、安倍晋三前首相という権力者の下で、人事権を行使して改革に抵抗する官僚を容赦なく切り捨てる役割を担い、政界で存在感を示していくようになった。
その一方で、菅氏は「無派閥」で通していた。仲間を作っていくことは、権力の座に上り詰めるために絶対に必要だ。だが、菅氏はその労力を割かなかった。
菅氏からすれば、そんな時間があれば、権力者から任された、抵抗する者をつぶす仕事に専念したかったのだろう。むしろ、仲間の存在は邪魔だとさえ考えていたかもしれない。自分が首相になる日が来るはずがないと思っていたので、これは合理的な行動だった。
菅氏は、「汚れ役」としての役割を全うし、官房長官在任期間は歴代最長となった。毎年約10億~15億円計上される官房機密費や報償費を扱い、内閣人事局を通じて審議官級以上の幹部約500人の人事権を使い、官邸記者クラブを抑えてメディアをコントロールし、官邸に集まるありとあらゆる情報を管理した。官邸に集まるヒト、カネ、情報を一手に握った(第256回)。
絶大な権力を掌握した菅氏だが、首相就任時、意外なまでの人脈の幅の狭さが明らかになった。最初の組閣・党役員人事で、主要閣僚・役員が安倍政権から留任し、安倍氏の側近、菅氏の初当選同期組、そして小此木・梶山の「2人の師匠」の息子たちが起用された。実に退屈で新味のない布陣となったからだ(第253回)。
菅氏が「非世襲」「無派閥」であることの限界を示すと同時に、首相になる準備を本当にしていなかったことがはっきりした。そして、これが菅政権の延命を阻む「致命傷」となった。