化学の進歩が世界を作り変えていく

――今、新型コロナウイルスの問題がいろいろな形で局面を変えながら続いていますが、この状況を左巻先生はどのように捉えていますか。

左巻 未だ先が見通せない状態ですが、生物工学とか、生物科学の発展からみると、「『mRNAワクチン』の実用化は大きかった」というのが私の捉え方ですね。

「mRNAワクチン」の実用化がなかったらと思うと寒気がします。

世界中に猛威…歴史上、人類をもっとも殺戮した「感染症」とは?

――世の中でも「mRNAワクチン」は話題になっていますが、簡単に言うと、どういう技術が使われているワクチンなのでしょうか。

左巻 もともとワクチンは病原性を弱めたウイルスや細菌を体内に入れて、病原体に対する免疫を付けるというやり方で行われていたんですね。いわゆる「生ワクチン」というものです。

 あるいは、ウイルスや細菌の毒性や感染力をなくしたものを使う「不活化ワクチン」というものもあります。

 しかし、DNAやRNAといった遺伝子そのものが「どういうものか」という分析技術が上がってくると、細胞の中で「何が、どう変化することで病気になったり、病気を治していくのか」が分子レベルわかってくるわけです。

 その技術を利用して、作ったワクチンが「mRNAワクチン」です。今、世の中に出ているのはファイザーとモデルナのワクチンですね。

――私のような素人では「ワクチンと言えば、弱毒化したもの」と思い込んでいましたが、それとはまったく違うアプローチのワクチンなんですね。

左巻 全部が全部、弱毒化というアプローチではないんですよ。新型コロナウイルスの場合、エンベロープというタンパク質と脂質の膜で覆われていて、そこにスパイクという、尖った部分がたくさん飛び出ているんです。そんな図を見たことがありますよね。

――よく見る新型コロナウイルスの図や写真ですね。

左巻 ウイルスが体内に入ると、そのスパイクが細胞のある部分にくっついて侵入し、ウイルス感染する。そういうしくみなっています。

 だから、ごく簡単に言うと、そのスパイクが人の細胞にくっつかないようにする物質(中和抗体)を人の細胞で作らせるために、ウイルスの遺伝子(mRNA)の一部、つまりスパイクを作る部分だけを人工的に合成してワクチンとして使います。

 そういうアプローチで作られているのが、今回の「mRNAワクチン」です。遺伝子についての科学技術を活用して作られたまったく新しいワクチンで、世界で初めて今回実用化されました。

 だからこそ「そんなワクチンは危ない」という人も当然出てきます。一方で、私のような立場からすると「生物工学や生物化学の研究がすごいワクチンを完成させた」という見方をしますし、もしこうした技術やその技術を応用したワクチンがなかったら、この感染症はもっとたいへんなことになっていたと思います。

 それと効果のある治療薬の開発ですね。ウイルスの増殖を抑えたり、異常な免疫反応が起こるのを防いだりする治療薬が開発されつつあります。

 もちろん、これで安心できるわけではなく、やはりこれからの問題はウイルスの変異ですよね。ウイルスは変異しやすいので、追いかけっこになっていきます。

 ウイルスの変異は弱毒化する場合もありますし、強毒化する場合もありますし、うまく制圧できなければ、ひたすら追いかけっこが続く可能性も当然あります。

 まさに化学技術や研究との戦いになるわけですが、こうした側面を見ると、あらためて「世界史は化学でできている」と感じますよね。

 化学の進歩が世界史を変えていくことは間違いありませんし、今まさに私たちは「新しい化学技術」が世界を変えようとしている真っ只中にいるのだと思います。

世界中に猛威…歴史上、人類をもっとも殺戮した「感染症」とは?左巻健男(さまき・たけお)
東京大学非常勤講師
元法政大学生命科学部環境応用化学科教授。『理科の探検(RikaTan)』編集長。専門は理科教育、科学コミュニケーション。1949年生まれ。千葉大学教育学部理科専攻(物理化学研究室)を卒業後、東京学芸大学大学院教育学研究科理科教育専攻(物理化学講座)を修了。中学校理科教科書(新しい科学)編集委員・執筆者。大学で教鞭を執りつつ、精力的に理科教室や講演会の講師を務める。おもな著書に、『面白くて眠れなくなる化学』(PHP)、『よくわかる元素図鑑』(田中陵二氏との共著、PHP)、『新しい高校化学の教科書』(講談社ブルーバックス)、『世界史は化学でできている』(ダイヤモンド社)などがある。

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