第7回近江商人発祥地の新川通り(滋賀県近江八幡市) Photo:JIJI

日本三大商人の一つ
近江商人が誕生した経緯

「近江商人とは、近江国(現在の滋賀県)に本宅(本店、本家)を置き、他国へ行商して歩いた商人の総称で、大坂商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人のひとつ」

 伊藤忠のホームページには近江商人について、こう定義されている。ここにあるように一般に近江商人は小売の商人を指す。

 ただ、忠兵衛は小売商ではなく、持ち下り(卸売り出張販売)で起業した。持ち下りをすれば広い世界を見ることができる。すぐに九州、長崎を定期的に訪れるようになるのは広い世界を見てみたいという願いがあったのだろう。

 さて、話を近江商人に戻すと、江戸時代に生まれたものではなく、応永年間(1394~1428年、室町時代)に伊勢との通商を行った「山越四本(しほん)商人」が発祥とされている。

 『近江から日本史を読み直す』(今谷明、講談社現代新書)によれば、「今堀日吉神社文書」に次のように書かれていたという。

「八風、千草(湖東から伊勢への峠)の両道は畿内近国で最も豊穣な湖東平野の扇の要の位置にあり、商品を伊勢へ搬送すれば儲けは大きかった。

 八風、千草の両道を用いて伊勢通商を行う権益は、山越四本商人、と称する商人団が握っていた。

 南から石塔(東近江市)、今堀(保内、東近江市)、小幡(同)、沓掛(愛荘町)の四集落を根城とする商人たちである。応永年間ごろには呉服、米、塩、魚を商う小幡商人が、新たに台頭した今堀の保〓商人(〓の文字は冂に入)にその地位を脅かされていると訴えており、伊勢への出稼ぎは十五世紀初めごろ、盛んになっていたようである」

 続いて同書には、消費地である伊勢側の村々では「近江泥棒、伊勢乞食」、「伊勢の者、国境には油断せず」と言い、近江商人を警戒したとある。

 警戒した理由は集団による大量の搬送と販売だと思われる。ひとりひとりで商品を携えて売りに行くのではなく、仲間同士が力を合わせてシステマティックに商売をする。これまた、今の総合商社のようなスタイルで伊勢へ売りに行っていたから同地の人々は警戒したのだろう。

 近江商人は応仁の乱で荒れている京都ではなく、伊勢を目指し、山を越えて販売に出かけた。その際、足子、駄馬、警衛を帯同している。江戸時代には水運が盛んになったが、伊勢方面へは陸路を使ったのである。

 同書によれば、相国寺の禅僧、横川景三(おうせんけいさん)が応仁2(1468)年に、千草峠で「人夫百余人、兵士は六、七十人、駄馬はその数を知らず」(『小補東遊集』)という大キャラバンを目撃している。

 時代は下り、江戸時代のこと。

 近江商人は伊勢、京都、大阪だけでなく、全国各地へ行商に出るようになった。

 彼らは他国へ行くと、「高島商人、八幡商人、日野商人、湖東商人」などと呼ばれ、それぞれ特定の地域の産物を持って仕事に励んだのである。