洋式簿記の採用など
新機軸の取り入れに意欲
忠兵衛が30歳になった1872年、持ち下りの商いで貯めた資金をもとにして大阪の本町2丁目に呉服太物商「紅忠」を開店した。
呉服とは絹織物のことで、太物とは綿織物、麻織物をいう。
紅忠は三井家が興した越後屋呉服店のように一般消費者に着物を売る小売店舗ではない。卸売り、業務用の販売が主であり、繊維商社の本社と言える。商品見本を置く事務所だったのである。
その当時、呉服問屋が集まっていたのは伏見町(本町よりも北側)だったが、本町にしたのは土地の価格が半額だったからだ。
紅忠は店を開いてから業績は上がり、短期間で本店を本町3丁目に移した。忠兵衛は店法を定め、店の運営に会議制度を採用した。
ちなみに会議という日本語は『五箇条の御誓文』に用いられたのをきっかけとして人口に膾炙(かいしゃ)するようになった明治初期のはやり言葉だ。
次いで、洋式簿記の採用、月刊誌『実業』の発行など、合議を重んじることからオウンドメディアの発行に至るまで、意欲的に新機軸を取り入れていった。
忠兵衛はチャレンジングな商人ではあったが、商売はかなり手堅くやっていた。紅忠を開店した後、時期を見て、少しずつ扱い商品を増やしている。新奇なアイデアで一発勝負をかけたわけではなく、政府御用を狙うこともしていない。少しずつ顧客を増やし、売り上げを上げていったのである。
時代こそ違うが、同じく近江を源流とする三井家の家祖、高利(1622~1694年)と比べれば、忠兵衛の慎重さ、じりじりと前へ進む姿がよくわかる。