ところが終戦後、GHQ(連合国軍総司令部)によって日本は航空機の開発・製造事業、さらに所有も禁止される。飛行機に日の丸を付けて飛ばすなど言語道断で、民間航空会社による運輸事業も解散を余儀なくされる厳しい航空禁止令が敷かれた。そんな中、松尾は初代の航空保安部長を経て、50年に航空保安庁長官となる。GHQににらまれながらも、国内の航空技術をひそかに温存し、航空事業の再開を模索していた。
そして51年、日本と連合国との間で講和条約が結ばれ占領状態が解けると、念願の民間航空の復活が現実味を帯びてくる。ところが、当時の首相吉田茂の側近で、首相の特使として米国で講和のお膳立ても果たした白洲次郎が、外資系航空会社と組んで民間航空を設立する案を画策し、あくまで日本企業によって“日本の空”を取り戻すことを主張する松尾の前に立ちふさがる。さらに、松尾らの他にも国内航空運送事業に名乗りを挙げる企業が出てきて、一時は混沌とするが、行政指導もあってナショナル・フラッグキャリア(一国を代表する航空会社)は日本航空に一本化されることとなった。松尾は、会長の藤山愛一郎(戦前に大日本製糖社長などを歴任し日本商工会議所会頭も務めた実業家)、社長の柳田誠二郎(元日銀副総裁)に次ぐ副社長に就任する。かくして翌52年にサンフランシスコ講和条約が発効すると、国内キャリアの自主運航が始まった。
日本航空の“離陸”から15年後、67年10月1日号の「週刊ダイヤモンド」に掲載されたインタビューで松尾は、世界の強豪との競争に勝ち抜くための抱負を語っている。この年、米ニューヨーク、旧ソ連・モスクワへの乗り入れ交渉がまとまり、日本航空は悲願だった世界一周路線を実現している。当時、週刊ダイヤモンドの他のインタビューでも松尾は盛んに「10年後には世界のビッグ5に入る」と公言している。手応えを十分に感じていたのだろう。そして83年度、日本航空は旅客と貨物を含めた国際線定期輸送実績で世界第1位にまで上り詰める。
しかし、設備費を中心にした過大投資による財務体質の悪化、ナショナルフラッグ故不採算路線から撤退できない事情、高賃金かつ複雑な労使関係による改革の遅れなどが複合的に経営をむしばみ、そこに2008年のリーマンショックが決定打となって、日本航空は10年1月に会社更生法適用を申請するに至る。まさかそんな運命が待っていようとは、松尾は想像もしていなかったに違いない。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
国際競争は品質の闘い
航空事業の質とは「安全」
――国際競争で最も大切なことは。
国際的な商売は、まず質のいい製品を売ることだ。やはり自分の製品に対する世界中の人の信用を得ることが一番大事だと考えている。
航空事業は、人命を預かっているので、とにかく安全であることが質のいい根底で、お客さんの命を取るような企業は、質の最悪のものだ。
要するに、安全に、定時に旅客なり貨物を目的地に運ぶことだ。そして誠意のこもったサービスをやる。これを合理化し、安く生産することによって、できるだけ国際競争力を高める。これが国際競争に勝つ根本だ。
ただ、航空輸送の仕事は、そればかりでない。路線を獲得したり、便数を増やすために、国際的な交渉が必要だ。基本になっているのは航空協定だから、政府にも、有利とまでいかなくとも、相互平等の航空協定を結んでもらわなければいけない。相互平等の協定を結ぶことは、大事な国の権益だと思う。
ほかの産業にしても、関税の取り決めとか、こういう問題についても平等にしないと、海外進出、貿易その他が不利になる。