「伊藤忠商事の社史」が、かつて平仮名を使わなかった理由伊藤忠商事の社史(写真提供:伊藤忠商事)

太平洋戦争時は
丸紅などと合併

 1931年の満州事変を端緒に日本は中国を侵食、満州国を建国し、37年の盧溝橋事件から中国と全面戦争になった。その後は歴史の教科書にある通り、主にアメリカと戦う太平洋戦争が始まる。戦争は約4年間続き、敗戦は1945年8月15日である。

 伊藤忠はその間、国家の戦時統制に従い、開戦の年の1941年には兄弟会社の丸紅、鉄鋼商社の岸本商店(現・大銑産業株式会社)と合併し、三興株式会社になった。

 44年にはさらに呉羽紡績、大同貿易も加え、大建産業に衣替えする。

 伊藤忠、丸紅、呉羽貿易という二代忠兵衛が経営していた3社を合わせた事業体だった。

 合併する以前から二代忠兵衛が3社の経営に目を光らせていたわけだから、実質的には何も変わっていなかった。統制経済のなか、軍需に徹し、呉羽紡績は綿製品の生産だけでなく、木製飛行機の製造や化学品の製造を任された。

 合併した会社は何をやっていたといえば「時局事業」と軍需だ。

 時局事業とは戦争および国内生活のための物資の調達などのこと。時局に鑑みた武器以外の軍需品、生活品の調達のことだ。

 東南アジアからは石油と金属類、木材などが主だ。中国からは綿花、小麦、雑穀、落花生、牛脂、豚毛、タバコ、卵粉、希有(希少)金属、日用品と在華紡(中国にあった日本資本の紡績工場)の綿布。

 調達といってもタダで持ってきたわけではない。いくら払ったかは社史(旧版)に書かれていないが、円系通貨(中華民国臨時政府の銀行券、汪兆銘政権の銀行券)で支払っている。ただし、どちらの円系通貨も通用したのは敗戦までの期間で、その後は紙くず同然になった。

 海外にあった支店の社員たちは時局事業にいそしんだけれど、敗戦が近づくにつれ、円系通貨を受け取ってくれる商人は少なくなっていった。

 彼らは支店を閉鎖して日本へ引き揚げたい気持ちは持っていたものの、船舶は足りず、結局、敗戦まで戻ってくることはできなかった。