総合商社という言葉が
戦後に使われ始めた理由
「総合商社の語は、戦後、使わるようになった。1955年(昭和30)年ごろから、わが国産業界およびジャーナリズムで使用され始めたといわれている」(『総合商社の研究』田中隆之 東洋経済新報社)
同書の著者は総合商社という言葉が誕生する以前は「貿易商社」「財閥系商社」「繊維商社」と呼ばれていたとしている。
そして、戦後、「総合商社」という新しい言葉が出てきたことについては2つの理由があると分析している。
ひとつは敗戦後、分割されていた三菱商事、三井物産が再合同(1954年と1959年)したのがその時期だったこと。もうひとつは伊藤忠、丸紅などの繊維商社が資源、機械などの取り扱いを増やして、総合化を目指したのも同じ時期であり、高度成長前夜だったからだとしている。
さて、伊藤忠にいた元職業軍人の高原友生は総合化を目指した会社の方針にのっとり、債権の取り立て任務は1年だけで、53年には金属部に異動した。
金属部があったのは繊維部門とは違う東京、皇居のお堀端にあった岸本ビルだった。岸本ビルは戦前、伊藤忠と合併した鉄鋼専門商社、岸本商店の持ちビルだ。
高原の仕事は鉄鋼原料になる石炭の仕入れおよび石炭を製鉄会社へ売り込むことだった。石炭は鉄の主要な原料だ。金属部のなかではもっとも売り上げの見込める仕事だったのである。
製鉄業界との取引拡大を望むも
業界トップからは門前払い
ここで少し鉄鋼と石炭について解説しておく。
鉄を作る場合の主な原料は鉄鉱石、コークス、石灰石の3つだ。
鉄鉱石は溶鉱炉に入れる前に、石灰石と混ぜて焼き固めて焼結鉱にする。コークスとは石炭を蒸し焼きにしたもの。焼結鉱はコークスとともに高炉と呼ばれる製鉄炉の上から入れる。炉の下からは、1200℃の熱風を酸素と一緒に吹き込んで、鉄鉱石を湯のように溶かす。炉の中では、鉄鉱石の不純物が上に浮かび、重い鉄分(銑鉄)は下にたまる。そうして銑鉄だけを取り出して製鋼工程へ回す。
鉄鉱石に含まれている鉄分は約60%だ。鉄分を取り出すためには酸化鉄から酸素を除去(還元)する必要がある。コークスを鉄鉱石と一緒に炉の中に入れるのは、還元剤として使っているからだ。
つまり、石炭は燃料として使うだけではなく、製鉄業には欠かせない原料なのである。
戦時中、鉄鋼業は壊滅に近い打撃を受けた。だが、戦後になると、製鉄会社は高炉の復興を進めながら、また新しい高炉を建設したのだった。その際、アメリカやドイツから進んだ生産技術を導入したことで、生産は回復していった。