働きがいはモチベーションではなく
マニュピレーション(操作)のたまもの
したがって、人によっては、あるときふと目が覚める。「うまいこと会社に乗せられて、自分の意思で主体的に仕事を楽しんでいると思っていたが、あれは上手にマニュピュレート(操作)されていただけで、自分のモチベーション(動機)からやっていたのではなかった」と。
ここに至る段階で、人は二つのタイプに分かれる。一つ目は、毒を食らわば皿までで、むしろ積極的にマニュピュレーション(操作)の仕組みを構築・運用する側に回ろうとするタイプ。二つ目は、このゲームから降りて、自分のモチベーション(動機)をもとに何か違ったことをする世界へ移ろうとするタイプである。
一つ目のタイプは、当人に何か達成したいことがある場合、この装置を使って大事を成し遂げる可能性はある。しかしながら、多くは操作そのものに喜びを感じてしまう。操作をする立場を権力ととらえ、人を差配する立場にある自分を勝者と認識する。そして、「社員に楽しく仕事をしてもらえる環境を作ることが私の生きがいです」などと雑誌で白々しく語ったりする。「やりがい搾取」という言葉もこの文脈の延長線上にある。
二つ目のタイプは、自分のモチベーション(動機)をもとに違った世界に移ろう、などと言って会社を辞めてはみたものの、自分自身が心底強いモチベーションで成し遂げたいことなど何もないと気づいてがくぜんとする。そして、長い自分探しが始まってしまう。下手をすると、嫌だからやめたはずのマニュピュレーション(操作)を利用したビジネスを始めたりする(結局それくらいしか得意なことがないので)。
実は、いちばん幸せなのは、操作されていることをうすうす感じながらも、あえて自覚せず、自分のやりたいことを深く考えることもなく、日々、与えられたタスクに淡々と対応し続ける人だろう。このような人は「仕事が楽しいものでも、楽しくないものでもない」人である。キャリアの専門家から見れば“自律も自立もしていない”と不評だろうが、人生において仕事の優先順位を高くしなければならないという必要も特段ない。上からの依頼にしっかり対応し続け、仕事を遂行するスキルを上げておきさえすれば、会社が傾いたからといって次の仕事が見つからない時代でもない。