1の学びは主に学校教育で行われる、基礎学力を身につけることを目的としたものだ。そして本書で著者が行っているような「観察」をめぐる思考においては、2の学びが主眼となる。まず1の「ラーン」(学び)を極め、それを意識的に手放すことで2の「アンラーン」(脱学習)に移行することが可能となる。この「アンラーン」に至るとき、人は「判断保留」している。

 ギリシア哲学の用語で「エポケー」と呼ばれる「判断保留」とはどのようなものか。「観察」に重ねて捉えると、次のように考えることができる。人間の行為の多くは、無意識のうちに行われている。例えば車の運転やスポーツなどでは徹底して「型」を真似ることにより、やがて「動作を無意識下」に置くことができるようになる。人間は本能的に「無意識」で動きたいと願うが、「観察」はそのような無意識下での行為を意識下にあげることであると著者は述べる。それによって正解のない、不安で「あいまい」な状態に自らを置くことになる。この「あいまい」な状態から世界と自分を観察した上で、自分の感情に従うことこそが著者が目指す生き方であり、この状態を保つためにこそ「観察力」が必要なのだ。

◇「あいまい」な思考法

「あいまい」な思考法は、今の時代にあっている、と著者は考える。

 これまでの社会では人々はマイホームや高学歴に象徴されるような「スタンダード」を求めてきた。例えばLGBTQという存在に目を向ければ、彼らは新たに現れたわけでなく、昔から存在していた。しかし「男女」という曖昧さを排除した2つだけの性別の概念で運営される社会の中で、その存在が可視化されてこなかったにすぎない。いま社会はそのような「スタンダード」(標準化)から、あいまいさを受け入れる「ダイバーシティ」(多様性)に向けて変化の時期を迎えている。

 多様性を受け入れるには、バイアスのかかった無意識の判断をしないようにする必要がある。あいまいなものを抱えつつ、あるがままに観察することが大事だ。

 そして観察に最も重要なものは、対象への「愛」である、というのが著者が辿り着いた考えだ。「愛」によって、いい観察ができるようになる。そしていい観察によって、愛はさらに深まる。その愛する対象を、「どう愛しているか」を表現する。つまり「一流のクリエイターは、愛にあふれている」。

 今著者の中には新しい問いが生まれた。「愛とはなんだ?どうすれば、僕の中で、対象への愛をあふれさせることができるのだろう?」