日本の政治はなぜダメになったか?巨匠たちが教える政治家の「真の資質」『指導者とは』リチャード・ニクソン著(文芸春秋ライブラリー)

「第一は権力感情である。形式的にはたいした地位にない職業政治家でも、自分はいま他人を動かしているのだ、彼らに対する権力にあずかっているのだという意識、とりわけ、歴史的な重大事件の神経繊維の一本をこの手で握っているのだという感情によって、日常生活の枠をこえてしまったような一種昂揚した気分になれるものである」(『職業としての政治』)

 よく言われる「権力の魅力」である。ニクソンは大人物の例をあげて権力の魅力を語る。

「アデナウアー、チャーチル、ドゴールなどは、みな権力を溺愛したと言える。だが、それをもって権力を振るうのを面白がったと言えば、事実の矮小化になるだろう。自分の判断が(たとえ間違っていても)最善と信じ、器量の劣る人が権力を濫用するのを見て耐えがたく思う人は、みずから権力を握る日を熱望する。他人の不手際を見て苦痛を感じるような人物は、自分が権力を手に入れたが最後、それを行使することを喜びとするに違いない」(『指導者とは』)

「誰かには任せられないから
自分がやる」が原点

 問題を正しく把握し、その問題を解決することこそ自分の「仕事」だと捉え、権力と暴力を行使する。「下手なやつには任せてはおけない。自分こそがふさわしい」と思うのが指導者たちの動機ということになる。しかし、実際はどうか。このような動機に突き動かされるのはチャーチルのような大指導者だけであって、普通の政治家は、心からの叫びが政治にかかわる動機になっていないのではないか。

「『仕事』につかえるのではなく、本筋から外れて、純個人的な自己陶酔の対象となる時、この職業の神聖な精神に対する冒涜が始まる。演技者になったり、自分の行為の結果に対する責任を安易に考えたり、自分の与える印象ばかり気にするといった危険に不断にさらされる。デマゴーグの態度は、本筋に即していないから、本物の権力の代わりに権力の派手な外観を求め、またその態度が無責任だから、内容的な目的をなに一つ持たず、ただ権力のために権力を享受することになりやすい」(『職業としての政治』)