これをニクソンは、さらに巧みに表現する。

「自己の処理する問題に真底から没頭し、それが『面白い』かどうかなど無関係という状態になれないような人は、指導者になるべきではないし、またたとえ指導者になっても失敗に終わるか社会に害を流すのが関の山だろう」(『指導者とは』)

 次に責任である。

「情熱は、それが『仕事』への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す」(『職業としての政治』)

 ここにおける責任とは何か。倫理的に正しく行動することか、それとも良い結果を出すことか。

 倫理的に方向づけられたすべての行為は、根本的に異なった二つの調停しがたく対立した準則の下に立ちうるということ、すなわち「心情倫理的」に方向づけられている場合と、「責任倫理的」に方向づけられている場合があるということである。

「宗教的に言えば『キリスト者は正しきをおこない、結果を神に委ねる』――かそれとも、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為するかは、底知れぬほど深い対立である」(『職業としての政治』)

国をよくするためには
どこまでやるべきかの「悩み」

 政治家にとって大切なのは、将来と将来に対する「結果についての責任(責任倫理)」である。つまり、国をよりよくすることである。ただ、その結果をもたらす政治的なアクションが倫理的である(心情倫理)かにも配慮し、2つの倫理の間の深刻な対立を克服しなければならない。「国をよくするためにはあらゆることをする。けれども、きれいごとだけでは乗り切れない場合に、ぎりぎりのバランスをどう取るか、悩みに悩み抜いて行動する」ということである。

「結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間――老若を問わない――がある地点まで来て、『私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる』というなら、測り知れない感動を受ける。――その限りにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両方相俟って「政治への天職」をもちうる真の人間をつくり出すのである」(『職業としての政治』)