遺伝子工学の成果

 インスリンの発見後、糖尿病の治療に牛や豚など動物性のインスリンが長く用いられた。だが、家畜を使う以上、すべての糖尿病患者の需要を長期的にまかなうのはどう考えても不可能だった。たった一人の糖尿病患者が、一年で七〇頭の豚を必要としたのだ。また、動物由来のインスリンには、時にアレルギー反応が起こるという難点もあった。

 一九七〇年代、遺伝子工学の進歩がこの問題を解決に導いた。遺伝子組み換え技術によって、人間のインスリンを化学的に合成できるようになったのだ。インスリンの設計図である遺伝子を組み込んだ大腸菌を大量に培養し、これにインスリンを産生させる方法である。

 一九八三年、イーライリリーは、遺伝子工学による新薬開発を目指して立ち上げられたバイオベンチャー、ジェネンテック社と協力し、世界初のヒトインスリン製剤「ヒューマリン」を発売した。

 ヒトインスリン製剤は、遺伝子組み換え技術によって初めて生み出された医薬品であった。これ以後、数々の医薬品が同じ手法で生まれることとなる。

 遺伝子組み換え技術は今や、医薬品開発になくてはならない技術になっている。その工程を支えているのは細菌だ。私たち人類が決してつくれない物質を、細菌はいとも簡単に大量生産するのだ。

 インスリン製剤は、体内でのインスリン分泌の挙動を模倣するため、その後も著しく進歩した。さまざまなタイプのインスリン製剤が生み出され、世界中で膨大な数が使用されているのだ。もちろん、インスリン製剤以外の糖尿病治療薬も非常に多彩であり、病態に応じてさまざまな薬が使い分けられている。

 とはいえ、血糖値の完璧なコントロールは非常に難しく、前述のさまざまな合併症は依然として大きな問題だ。かつて著しく短命であった一型糖尿病も今や慢性的な疾患となり、結果的に合併症リスクを抱えることになった。

 二〇一九年の国際糖尿病連合(IDF)の調査では、世界で四億六三〇〇万人、すなわち一一人に一人が糖尿病にかかっているとされる(1)。世界的な都市化と高齢化、肥満の増加などが主な原因だ。

 糖尿病との戦いは、三千年を超える長い歴史上、まだ始まったばかりなのだ。

【参考文献】
(1) 糖尿病ネットワーク「世界糖尿病デー 世界の糖尿病人口は4億6300万人に増加 糖尿病が大きな脅威に」(https://dm-net.co.jp/calendar/2019/029706.php)
『図説 医学の歴史』(坂井建雄著、医学書院、2019)
『Medicine 医学を変えた70の発見』(ウィリアム・バイナム、ヘレン・バイナム編、鈴木晃仁、鈴木実佳訳、医学書院、2012)
『切手にみる糖尿病の歴史』(堀田饒著、ライフサイエンス出版、2013)

(※本原稿は『すばらしい人体』を抜粋・再編集したものです)