世間から「見放された」人に手を差し伸べ
みそぎの場をつくった
するとニコリと笑って、「私があまりにもモテるので、審査員たちが焼きもちを焼いているのでしょう」と言う。前向きでユーモアにあふれ、一切駆け引きもない。何でも率直に話してくれた。
寂聴さんと会う人は皆、彼女の魅力に惹かれてしまう。彼女の不倫相手(※作家の故・井上光晴氏)の子である作家の井上荒野さんが寂庵で寂聴さんと対談したときに、父はあなたとお付き合いしたことをうれしく思っていたし、母もおそらくあなたにどこかシンパシーを感じていたのではないかと、そのようなことを話していたね。
――寂聴さんの本を読んだことがない人におすすめの本はありますか?
たくさんある。強いて言うならやはり『美は乱調にあり』だろう。アナーキストの大杉栄と結婚した伊藤野枝の壮絶な生涯を描いた作品だ。
寂聴さんは、世の中でアウトローとされている人に会い、数多くの本を出している。たとえば、浅間山荘事件で有名な連合赤軍の永田洋子(元死刑囚)。寂聴さんは永田と何度か面会したり文通したりして、『愛と命の淵に』という共著を出している。
僕も永田洋子を拘置所で取材したことがある。永田は連合赤軍の内ゲバで仲間を何人も殺し、世間では完全な悪人とされていた。浅間山荘事件の前、僕のもとに遠山美枝子という連合赤軍のメンバーがカンパを求めて訪れてきたことがあったが、この遠山も永田に殺されてしまった。
当然、寂聴さんがこの永田洋子と共著を出したことに対し、世間で多くの批判が出たが、寂聴さんは気にしていなかった。寂聴さんは永田を批判したりせず、出家者として、何より瀬戸内寂聴として、永田というひとりの人間の言い分をしっかりと聞いた。
問題となった「STAP細胞」の小保方晴子さんとも対談していたね。行き場を失った人には駆け込み寺が必要だ。寂聴さんは、世間から「見放された」人に手を差し伸べ、禊(みそぎ)の場をつくった。
寂聴さんは最後まで
多くの人に「モテた」
――それはどのような心情なのだと思いますか。
世の中で糾弾されている人というのが、どうしても気になるのだろう。僕もわりかしそういう人が好きなので、寂聴さんの気持ちはわかる。世間から糾弾されている人や、逮捕・起訴された人の中には、本当に真剣に生きている人たちがいる。田中角栄や小沢一郎さん、堀江貴文さんもそうだろう。その時の社会状況次第で冤罪になることもある。
僕たちは戦争を知っている最後の世代。僕は小学校5年生の夏休みに、天皇が敗戦を伝える「玉音放送」を体験した。直前の1学期には、「米英の植民地となった多くのアジアの国々を解放・独立させるための『正義の戦争』を我々は行っている」「君たちも早く大人になって、天皇陛下のための名誉の戦争をするんだ」と教師に教え込まれ、僕も「その通りだ」と思った。
それが夏休みに終戦を迎え、2学期が始まるころに米軍の占領が始まると、教師の言うことが180度変わった。「あの戦争は絶対にやってはいけない『悪い戦争』だった。正しいのは米英だ」「君たちは今後、絶対に戦争をしてはいけない。命にかけて平和を守れ」と言う。ラジオも新聞も、戦前に褒めたたえていたはずの人間を、「悪い人間だ」「逮捕・処刑されて当然だ」と、ちゅうちょなく糾弾し始めた。
このわずか数カ月の体験が、僕の原点となっている。国というのは平気で国民を洗脳する。偉い人が言うことも権力も信用できない。マスコミも信用できない――。
そういう意味では、寂聴さんも同じことを思っていたはずだ。彼女も、権力は信用していない。常識も信じていない。そういう思いは、僕よりもはるかにすさまじい。だから彼女は、世間の批判なんて一向に意に介さない。それがすごい。さすがに僕だって批判されることは嫌だけれど、数多くの修羅場を乗り越えてきた彼女はまったく平気なんだよね。そのような人はほかにいない。
――田原さんでも批判されることは嫌なのですね。率先して矢面に立っている印象がありますが…。
嫌ですよ。批判に弱いんだから。僕も糾弾されている人を引っ張り出して話を聞くということはやるけれど、自分が批判されるのはとても弱い。
――寂聴さんに最後にお会いしたのはいつだったのですか。
18年ほど前にイベントでご一緒した。直接会ったのはそれが最後だった。その数年前に、雑誌の企画で対談もした。寂聴さんは最後まで本当にエネルギッシュだったね。ウーマン・リブ運動(1960年代後半から1970年代前半にかけて起こった女性解放運動)、原子力発電反対運動、集団的自衛権行使への反対運動など、晩年までガンガン、平和を求めて市民運動に参加していた。すごいとしか言いようがない。
せっかく99歳まで生きたんだから、何とか100歳まで生きてほしかった。とにかく明るく、自分に素直でうそ偽りが一切ない。そして多くの人々に愛された。最後までモテた。こうした寂聴さんの生き方に、多くの国民がうらやましいと思ったのではないか。