小松製作所社長・河合良成、協和発酵工業社長・加藤弁三郎、ジャパンライン社長・竹中治、ソニー社長・井深大
「ダイヤモンド」1960年9月10日号に掲載された4人の社長による座談会。出席者は小松製作所社長の河合良成(1886年5月10日~1970年5月14日)、協和発酵工業社長の加藤弁三郎(1899年8月10日~1983年8月15日)、ジャパンライン(当時日東商船)社長の竹中治(1900年4月10日~67年4月15日)、ソニー社長の井深大(1908年4月11日~97年12月19日)である。

 河合は農商務省の官僚から東京株式取引所に入り、戦後は政治の道へ。厚生大臣を務めた後に、経営不振だった小松製作所の社長に就任した。加藤は酒造業の四方合名会社(現宝ホールディングス)の化学技術者から37年に協和化学研究所を開設。終戦後の49年に協和発酵工業(現協和キリン)を設立した。竹中は商工省の官僚から、37年に海運業の日東鉱業汽船を設立。48年に日東商船として再出発し、64年に大同海運と合併してジャパンライン(現商船三井)を誕生させた。井深は46年に盛田昭夫と共に東京通信工業(現ソニー)を創業。この座談会の参加者の中では、当時52歳と最も若い上に、会社設立自体が戦後という“新世代”だ。

 座談会のテーマは「ワンマン経営」について。冒頭、当時74歳の河合が「昔(戦前)の社長は横暴だった」と、浅野総一郎(浅野セメントを中核とする浅野財閥総帥)や郷誠之助(戦前に数々の企業を再建し財界のまとめ役として活躍)の例を引く。それに比べると「今の社長は文化的」と笑う。

 興味深いのは、戦前の社長と今の社長では資本参加の度合いが違うとする井深の主張だ。「昔は自分の会社の資本を自分で持っておられた」と語り、資本を持つことが事業への真剣さにつながっていたと断じている。そして実際、在阪の電機メーカーの場合、松下幸之助(パナソニック創業者)にしても井植歳男(三洋電機創業者)にしても、経営者自身が大株主であるのに対し、東京の総合電機メーカーのトップはどれもサラリーマン経営者で、持ち株比率は1%以下であることを挙げ、「どちらが事業をつかんで運用しているかというと、非常にはっきり出ている」と言うのである。特に、事業の安定を保つのでなく、不安定性を求めて革新していくとき、決定権を持つためにも経営者は資本家でもあるべきだと井深は説く。

 長い記事のため、前後編に分けて掲載するが、4人のうちで最も若い井深が全体を通じてさまざまな問題提起をしているのが面白い。後編では、コンピューターが普及した未来で経営者が果たすべき役割について、井深が自説を披露している。終戦からわずか15年という時期に井深が発揮した慧眼ぶりは次回、ご紹介したい。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

昔の社長は横暴だった
終戦後、デモクラシーに

「ダイヤモンド」1960年9月10日号1960年9月10日号より

――現代の社長はどうあるべきかということについて、ざっくばらんにお話し願いたいと思います。まず、経済構造、または資本主義の変貌で、昔の社長に比べると、今の社長は、資本家社長から、バーでいえば雇われマダムみたいに変わった点もあると思うのですが。

加藤 昔の社長の話はなんといっても河合さんですよ。僕や井深さんには昔の社長の話はできない(笑)。

河合 ここでは私は年がいっていて、戦前と戦後とにわたっているが、別に両方の社長の代表というわけではない(笑)。