不朽#永野重雄・富士製鉄社長
 今回紹介するのは、「ダイヤモンド」1962年2月19日号に掲載された、富士製鉄社長の永野重雄(1900年7月15日~1984年5月4日)に日本鉄鋼業の見通しを聞いたインタビュー記事だ。冒頭で永野自身、「私は大正の末期から鉄の仕事をしているが、戦前は鉄はほとんど輸入でした。(中略)今日では、昔の紡績に代わり、鉄鋼が日本輸出産業の筆頭になっています。大変な成長です」と語っているが、掲載の前年に当たる61年、日本は英国を抜き、世界第4位の製鉄国となり、64年には西ドイツを抜き、3位に躍り出るのだが、まさに成長一途の時期である。

 戦後の復興期において、政府は限られた資金や資源を集中させる「傾斜生産方式」の対象として鉄鋼を選ぶ。鉄は、あらゆる分野の基礎素材で「産業のコメ」であり、まさしく「鉄は国家なり」という格言そのままに、国力を示す産業として大いに期待を寄せられていた。事実、その期待を追い風に、50年代から70年代を通じて日本の製鉄業はうなぎ上りに成長を遂げた。粗鋼生産量は5年で倍増という急ピッチの拡大で、高度経済成長期の日本経済のけん引役だった。

 永野は70年、富士製鐵と八幡製鐵の合併によって誕生した新日本製鐵(現日本製鉄)の会長に就任。記事中では永田は、70年度の粗鋼生産量4800万トンを目標に掲げているが、その目標を優に上回り、新日本製鐵は世界一の鉄鋼メーカーに、また日本最大のメーカーになった。永野の足跡については、本連載の『鉄鋼大再編の立役者、永野重雄が振り返る「日本製鐵」誕生の全経緯』もご覧いただきたい。

 さて、日本の製鉄業のピークは、新日本製鐵の誕生から3年後の73年で粗鋼生産量約1億2000万トン。世界生産に占めるシェアは17.1%と過去最高を記録している。ところが、第1次石油危機を経て粗鋼生産量は1億トン前後で推移し、成長がピタリと止まる。生産規模は90年代まで1億トン前後で増減を繰り返すレベルで、世界シェアは徐々に低下していく。そして現在、世界の製鉄業は、1位の中国が53.3%と断トツで、2位がインドで5.9%。日本は5.3%で依然として世界3位に位置、米国(4.7%)、韓国(3.9%)、ロシア(3.8%)と続く(世界鉄鋼協会「World Steel in Figures 2020」)。上位の顔触れは記事当時とは一変している。

「鉄は全ての産業に共通の資材ですから、鉄鋼が、国の経済成長の速さと同じテンポで伸びていかなければ、その国の経済成長は達成されません」と永野は語っているが、鉄鋼の世界生産シェアが過去最高となった73年の約20年後の94年に、日本のGDP(国内総生産)の世界シェアは18.0%に達した後、減少に転じていった。皮肉な符号といえる。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

輸出産業の筆頭に成長
鉄鋼の生産目標

ダイヤモンド1962年2月19日号1962年2月19日号より

――日本の鉄鋼業は、昨年の生産で英国を抜き、世界で4番目の鉄鋼生産国になりました。今後、さらに成長し、西ドイツを抜いて、第3位になろうという勢いですが、日本が世界第4位の製鉄国に成長した理由から一つ。

 私は大正の末期から鉄の仕事をしているが、戦前は鉄はほとんど輸入でした。

 鉄の値段を決める場合でも、FOBアントワープ、ブリュッセルが幾らだというようなことで決まったものです。日本独自の価格ということは、考えなかった。

 それが、今日では、昔の紡績に代わり、鉄鋼が日本輸出産業の筆頭になっています。大変な成長です。

 今、西ドイツを抜くというお話がありましたが、昨1960年の12月に抜きましたよ。1カ月だけですがね。

 英国を抜いたのは61年ですが、年間を通じてドイツを抜くには一両年かかるかもしれません。

――今、日本で進められている設備計画の生産目標は。