日本の世論も「外交ボイコット」賛成派が主流に

 そもそもオリンピックのイベントの中に「外交」という種目はない。各国の大統領や首相など政府高官は開会式に参加する慣例はあり、スタンドに席は用意される。だが、あいさつする場は与えられないし、場内アナウンスで紹介されることもない。唯一、開催国の元首がIOC憲章に定められた文言で開会宣言を行う。それ以外、政府高官の参加する場はない。オリンピックに政治や高官の参加は前提とされていないのだ。

「最初からないもの」を「ボイコットする」というのは、言い過ぎではないだろうか。言い換えれば「誇大広告」のようなもので、アメリカのメディアと政府が共同で創り上げ、普及に成功したインパクトのある流行語と位置付けるのが妥当な気がする。

 ところが、日本の世論は、この流行語がえらく気に入ったか影響を受けた様子で、実態を吟味する以前から、「日本も外交ボイコットすべきだ」とか「岸田首相は判断が遅すぎる」といった批判が大勢を占める空気になってしまった。

 岸田首相は15日の参議院予算委員会で、北京五輪に「自分は行かない」と明言した。しかし、野党も世論も、「態度が曖昧だ」とか「判断が遅い」などと批判を繰り返している。私は特定政党を支持する立場ではないが、この件に関して、岸田首相の選択は賢明ではないかと感じている。

 アメリカと歩調を合わせて「外交ボイコットをする」と言えば、アメリカ側の受けは良いかもしれないが、実態のないものに賛同する愚かさとむなしさは拭えない。しかも、実態のない外交ボイコットを宣言して中国から余計な反発を食らう必要がどこにあるだろうか。

 ただ、「自分は行かない」と明言した時点で、岸田首相は態度を明らかにしたことになる。「外交ボイコット」と表現しないだけで、実質的には同じ選択をした。そう理解できないだろうか。

 私は、中国のウイグル問題や彭帥選手騒動に見られる不透明な人権弾圧は改善されるべきだと強く感じている。だが、そのことにオリンピックやスポーツを巻き込む正当性は問われる必要がある。人権問題などは、スポーツを道連れにするのでなく、まさに外交や政治の舞台で真っすぐに取り組み、改善を求めるべき問題ではないだろうか。

 コロナ禍で「分断」が進んだといわれる影響か、日本社会はほとんど冷静な議論ができない雰囲気に支配されている。多くの人が最初から感情的に「反対!」あるいは「賛成!」といった思い込みを前面に押し出し、詳しい情報を入手して熟慮するとか、思い込みの誤りに気付いて翻意するといった心の動きが恐ろしく減退しているように感じられる。

 東京2020開催前には、「選手がかわいそう」という感情に「自分たちの命や健康が大事」という切実な気持ちが勝り、選手そっちのけで開催反対と叫ぶ人が大勢を占めた。私は「どうすれば開催が可能か」「組織委員会の感染対策に有効性はないのか」と議論を呼びかけたが、最後まで議論をできる雰囲気にさえならなかった。しかし、競技が始まった途端、「オリンピックやめろ」の大合唱は感動の声に変わった……。