ツッコミは「マウンティング」である

さて、「ボケ」こそ現実に突きつける「仮説」であり、言葉によって平凡な日常から離陸するためのテイクオフだと説明した。そしていま、離陸するためのテイクオフという全く無意味な反復をした。

それに対して「ツッコミ」とは、わかりきったことを言うだけの「仮説殺し」、つまりは仮説と検証という科学的探究心で成り立つ近代以降の社会において、まったく非科学的な態度であることを述べた。

わたしがよく話すことに、こういうものがある。

「カワウソが成長したらラッコになる。ラッコが成長して、一定の大きさを超えたらビーバーになる」

まごうかたなき「ボケ」であるし、一瞬「そうなの?」と思ってもらえたら幸いだし、結局最終的には信じるものはだれもいないしょうもない仮説である。なんなら手元のスマホで調べたら数秒でそんな事実はないと判明する程度の低レベルなボケである。

だが、まさかと思うが「バカなことを言うな。生物学的にカワウソとラッコとビーバーは全く異なる生き物だ」というようなことを正面から主張してくる者がいるのだ。しかも、だいたい怒っている。余談だが、「俺を怒らせるなよ」などと言う人はすでに怒っている。

その主張と怒りはいったいなんなのか。わたしがカワウソとラッコは同じと言い放ったぐらいで遺伝子組み換えが起こるのか。

その主張こそ「ツッコミ」であり、ツッコミの正体は「マウンティング」なのである。

いま、お前は頭の悪いことを言ったな、それは間違いだぞ、お見通しだぞ、お前のやったことは、全部すべてスリットまるっとゴリっと世界の果てまでお見通しだ! どんとこい超常現象! というわけなのである。

短く要約すると「私は賢くて、お前はバカ」ということだ。苦労して日常に対して仮説を提示した英雄に対して、労せずして優位に立つ、そんな甘い夢を見ている人間が「ツッコミ」をするのである。

そして、そのツッコミは、SNSにおいては「クソリプ」と呼ばれるものである。だれかが日常をおもしろくするために掲げた仮説に対して、日常や常識にのっとった正しさを主張する。

合理性を求める人とか、マウンティングしてくる人間は、「その人の常識」という限定的な時間と空間の中にある正しさを主張しているだけなのである。人生100年あるとして、活動の幅は地球の広さだけあり、時間も空間もコントロールできるはずがないほど膨大なのに、現在暮らしている共同体の、現在生きている時間というものすごく狭いフィールドの中だけで通用する正しさを持って、そこに「楽しく異を唱えた人」を弾劾して威張ろうとする。

日常生活でそんな人間になってはいけない。だれかが「カワウソが成長したらラッコになり、ビーバーになる」と言い始めたら、「最終形はトドですか?」ぐらいのくだらなさでいい、仮説をつなごう。

繰り返し述べるが、ボケに対して「そんなワケないやろ!」と素早くツッコミを入れる必要があるのは、舞台芸人だけである。芸人は役割として、十分おもしろく客を笑わせたその話を一旦そこで終わらせ、ボケ役が展開する次のテーマに舵を切っているだけなのである。

そして最後には「もういいぜ」とか「ええ加減にせい」などと叫んで舞台から退場する進行について責任を帯びている。

あなたが自分の人生からいますぐ退場する必要がないのなら、他人にツッコむのはやめよう。

「ツッコミがおもしろい」という壮大な勘違い金正恩の服でブルース・リーかよ!