「ジャンプでは、踏み切りが大事とよく言われますよね。確かにそうなんですが」

 こう言った後、葛西は今まであまり聞いたことのない言葉を口にした。

「踏み切りのときにスリップするんですよ。これが出始めるとなかなか直らない。厄介な病気なんです」

 踏み切りで大事なのは、「角度とタイミングと力強さ」といった表現はよく耳にする。だが、選手にとって厄介なのは、それ以上に「スリップ」だというのだ。そう語る葛西自身、スリップには悩まされ続けている。

「今度の北京五輪には出場する可能性がなくなりました。もちろんまだ引退はしません。次の五輪を目指します。でも今回は割り切っています。スリップが直らないから、今から北京には間に合いません」

 わかっていても直せない。葛西でさえうまくいかない。それが「スリップ病」。詳しく葛西が教えてくれた。

「氷の上で普通のシューズで立ち幅跳びをしたら、ツルッと後ろに滑るでしょ? それと同じことがジャンプするときに起こるんです。これが出始めたら、直すのが難しい。スリップしないためには、力をセーブするしかありません。七分から八分の力で飛べたら優勝争いができます。でも、五分か六分に抑えたら、距離が出ないから勝負になりません」

 つまり、スリップを防ぐため、思い切り飛べないジレンマの中で選手たちは競技に向かっているのだという。

「ところが、ほとんど十の力で飛べる選手がいるんです。それが小林陵侑です」

 葛西が誇らしげに言った。

「2017年の夏合宿のとき、スリップしないためのポイントを助言したんです。教えてもできない選手は3年でも4年でもずっとできない。なのに陵侑は教えて2本目か3本目でもうできたんです」

 それが天才と呼ばれる小林陵侑のセンス。レジェンド葛西の助言を身体に刻んだ小林陵侑は翌年から面白いように、誰よりも遠くに飛べるようになった。

 レジェンド葛西は出場しないが、葛西のDNAを受け継ぐ小林陵侑が24年ぶりの金メダルを目指し、北京五輪の空を飛ぶ。

(作家・スポーツライター 小林信也)