外形標準課税は実質敗訴
「新銀行東京」は大赤字

 この時代、日本経済が未曽有の不況にあった。にもかかわらず、いわゆる“高給取り”の行員が務める銀行をなぜ税金で救済するのかと、国民の間では怨嗟(えんさ)の声が上がっていた。石原氏が強い支持を集めた大きな要因だ。

 それでも司法は石原氏に「ノー」を突き付ける。東京地裁は02年3月、この課税が違法と断じ、それまでに納税されていた724億円を銀行側に返還するよう都に命じた。石原氏は判決当日、記者団に「かなり変わった裁判官。情念的、感情的で冷静な裁判という感じがしない」などと裁判官を激しく批判した。

 だが結局、二審でも都が敗訴。東京高裁は、地方税法で「著しく均衡を失することのないよう」と定めた点をクリアしていると、都が十分に証明できていないと指摘した。03年に最高裁で和解したが、都の返還金は2340億円となり、実質的な敗訴だった。

 石原氏はその後も“銀行”をめぐって失策を重ねる。「新銀行東京」である。

 2期目を目指した石原氏が03年、知事選の公約に掲げ、都が1000億円を出資して独自の銀行を設立。05年に営業を開始した。だが07年3月期決算では、中小企業向けの融資・保証残高が計画の6割にとどまり、不良債権処理によって547億円の最終赤字に陥った。08年のリーマン・ショック前の好況時に、この決算である。

 外部人材を登用していたとはいえ、石原氏が普段から「民間感覚がない」などと罵倒してきた公務員が主導して、「保証人不要の無担保融資」などという特殊なビジネスモデルを実現することは、そもそも不可能だった。

 累積赤字が資本金1000億円を食いつぶすほど経営が悪化する大失策となり、あの石原氏が都議会で頭を下げて、08年に400億円を増資。この時、石原氏のコラム「日本よ」を連載していた産経新聞でさえ、社説で「都民無視した追加出資だ」と突き放したほどだ。それでも経営は改善せず、規模を大幅に縮小し、18年にきらぼし銀行に吸収されて今に至る。

 石原都政の政治的な最大の危機は、05年に当時の浜渦武生副知事が、民主党都議に「やらせ質問」を依頼したとして自民党会派に総攻撃され、辞任に追い込まれたことだろう。都知事就任後も小説やエッセーを執筆し、都庁に週2、3日しか出勤しないと言われていた石原氏だが、このころから都政に急速に関心を失っていったとされる。

 確かに石原都政を代表する政策は、99~03年の1期目に打ち出されていた。その後は、国政がらみの発言が注目されたり、冒頭に挙げたような差別発言や暴言が批判されることはあっても、ディーゼル規制や銀行への外形標準課税で見られたような、世論の強い支持を背景に、国を向こうに回して戦うといったほどの迫力はなかった。

 良くも悪くも「大物」と呼ばれ、死してなお称賛と批判が渦巻く石原氏。晩年は「愛されて死にたい」とも「憎まれて死にたい」とも語っており、盟友だった評論家の江藤淳氏が「無意識過剰」と評したとおりの振る舞いだったが、政策は政策として批評されるべきだろう。