1988年のセンバツ出場が決まり、部員もその家族も歓喜した。無理もない。大阪府を代表して甲子園へ、という誇らしさ。ここまで激戦を勝ち抜く猛練習を重ねてきての栄誉である。

「だけど僕は父兄の前で怒った。浮かれたらダメだと。浮かれるといろいろなことがおうようになる。勝ったからいいと1点を粗末にすると、必ず痛い目に遭う。君たちは去年のチームの足元にも及ばない。去年の部員は13人。投手は普段から靴に鉛を入れて鍛錬した。他のメンバーも見えない努力をしていた。大阪大会の決勝でPL学園にサヨナラ負けしたとき、僕は彼らをほめた。最高の試合だったと。でもセンバツ出場のときには怒ったんだ」

 気持ちを引き締めた近大附属ナインは、続く夏の全国大会にも出場を果たした。

 勝ったときこそ厳しく、細かく。

 小宮山は「自分の指導法は石井連藏、野村徹のライン」と明言している。

 石井連藏も著書にこう記している。

「(前略)問題は練習の内容だ。真剣さの中身である。(それは監督の)命令や小言によって生まれるものではなく、選手自身の心の中から喜びとともに湧き出るものではないのか。それぞれの選手が持っている個性や特徴を、それぞれの選手が大学のスポーツというルールの中で伸び伸びと磨ける、抑えようのない嬉しさや楽しさから生まれるものではないのか」

 その土壌を作ることが、指導者の最も大切な役目だと石井は説く。

自主を見守る小宮山監督
あえて選手を「泳がせる」

 小宮山は終日部員の練習を見続け、変化を見逃さず、力の伸びる一番のタイミングで声をかけてきた。

 そこで2021年。

 野村のアドバイスを心に刻みつつも、小宮山は引き続き部員たちの自主を見守ったのである。