1926年に米国シカゴで創立された世界有数の戦略系経営コンサルティング会社、A.T.カーニー。同社史上最年少で日本代表に就任した関灘茂氏が今回、話を聞くのは、サントリー創業者のひ孫であり、サントリーの国内酒類事業を統括する、サントリーホールディングスの鳥井信宏副社長だ。組織と人材、ビール事業の意味と展望、サスティナビリティ、職人とテクノロジー、ネクストリーダーへのメッセージなどについて、3回にわたってお届けする。前編は、サントリーグループが生み出してきたさまざまなブランドの歴史、その陰にある失敗と成功の物語を聞いた。(構成/ダイヤモンド社 編集委員 長谷川幸光、文/奥田由意)
国産初の本格ウイスキーは
まったく売れなかった
A.T. カーニー日本代表。神戸大学経営学部卒業後、A.T.カーニーに新卒で入社し、2020年に同社史上最年少の38歳で日本代表(マネージングディレクター ジャパン)に就任。INSEAD(欧州経営大学院)MAP修了。グロービス経営大学院専任教授、K.I.T.虎ノ門大学院 客員教授、大学院大学至善館特任准教授、経済産業省「新たなコンビニのあり方検討会」委員。 Photo by Teppei Hori
関灘茂氏(以下、関灘) サントリーグループはこれまでに、「赤玉ポートワイン」(※1907年に発売した甘味果実酒。現「赤玉スイートワイン」)から始まり、「山崎」「白州」「響」「角瓶」「トリス」などのウイスキー、「ほろよい」「-196℃」「こだわり酒場のレモンサワー」などのRTD(Ready To Drink/開けてすぐに飲める酒類)、「ザ・プレミアム・モルツ」「金麦」「オールフリー」などのビール事業、「セサミン」などの健康食品事業と、数々の事業やブランドの創造に成功されています。
成功に至る道のりには当然、困難が伴ったと思いますが、どのような試行錯誤や創意工夫があったのでしょうか。
鳥井信宏氏(以下、鳥井) 私たちの成長のきっかけとなったウイスキーづくりは、100年以上前に、創業者の鳥井信治郎(とりい・しんじろう/1879〜1962年)が、でっち奉公先の薬種問屋でアルコールを調合する仕事に関わったところから始まりました。
当時は、現在のウイスキーとは異なる性質のお酒で、言わば「模倣品」でした。信治郎はそこから、何が何でも本物の国産のウイスキーをつくってやろうと一念発起しました。
何があったか、何が彼を突き動かしたのかは誰にもわかりませんが、ウイスキーづくりの準備に奔走し、試行錯誤を重ね、1923年に京都郊外の山崎に蒸溜所を建てました。これが日本初のモルトウイスキー蒸溜所、山崎蒸溜所です。志してから十数年かけ、ようやく国産ウイスキーの製造が始まったのです。
サントリーホールディングス代表取締役副社長。日本興業銀行(現・みずほ銀行)を経て、1997年サントリー入社。2009年、サントリーホールディングス執行役員、2011年、サントリー食品インターナショナル代表取締役社長、2016年から現職。グループ戦略・改革本部長として中長期視点での改革を推進するほか、国内酒類事業を統括するサントリーBWS代表取締役社長も兼ねる。 Photo by Teppei Hori
その後、1929年に国産初の本格ウイスキーとなる「サントリーウイスキー白札」(現・「サントリーホワイト」)を売り出すことができましたが、それほどまでに情熱を傾けて製造したものの、さっぱり売れずに終わりました。
国産のウイスキーが日の目を見るまでには、そこからさらに8年、1937年の 「サントリーウイスキー12年」(現・サントリーウイスキー角瓶)の発売を待たねばなりませんでした。
その後サントリーは、ビール事業に進出したり、飲料事業を手がけたり、多角的に事業を行っていますが、基本的にはウイスキーの売り上げで成長してきました。その原資を多方面に振り分けることで、成長を加速化してきたのです。
とはいえ、稼ぎ頭のウイスキーでさえ、ずっと安泰というわけではありませんでした。ウイスキーが飛ぶように売れていた時期があり、需要に対応するために大きな蒸留設備を導入したところ、品質がやや異なるものができるようになりました。
また、消費者の酒類の嗜好(しこう)の変化や、焼酎などほかのお酒の台頭など、複数の要因が重なって、バブルの頃、1980年代後半から1990年代にかけて、ウイスキーが売れなくなったんです。需給の予測を完全に見誤ったことで、事業として厳しい局面を迎えました。