失敗を機に品質を高める方向へ転換
最初はいずれも失敗の連続
鳥井 在庫をコントロールするために、ウイスキーの製造量を減らす一方で、失敗を機に、よりいっそう品質を高める方向へ変えました。
ウイスキーというのは、製造に多大な時間を要します。蒸留した原酒を樽に詰めて、熟成して、取り出してブレンディングし、世へ出すのに、十何年もの歳月がかかります。長くウイスキーが売れない時代が続きましたが、その間も真摯(しんし)にものづくりに取り組みました。こうした努力がようやく実を結んだのは、21世紀に入ってからでした。
2004年、蒸留酒の国際的なコンペティション「インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ」にて、「サントリーウイスキー響30年」が、日本で初めて最高賞を受賞し、その後、3年連続で同賞を受賞しました。ウイスキーの「模倣品」をつくってから100年近くたって、ついに国産ウイスキーで、世界の品評会の最高賞をいただくまでに成長したのです。
先ほど申し上げたように、ウイスキーで稼いだお金を、その他の事業に投資し、そうしたウイスキー以外の事業が徐々に成長し、さらにその利益を今度はウイスキーへと投資できる循環が、結果的に形成されていったのです。
しかし、振り返れば、最初から成功している事業や製品はほとんどありませんでした。唯一、最初からヒットしたといえるのは、1994年に発売した発泡酒「ホップス〈生〉」が、発泡酒市場を創出したことですね。それ以外は、最初はいずれも失敗の連続です。
関灘 ウイスキー事業は、相当に長い期間が必要です。それほどの長期的な視点をもってウイスキーを手がけようとした経緯はどういうものだったのでしょうか。
鳥井 創業者は、「誰もやったことがないものをやりたい」という熱い思いをもとに、国産ウイスキーの製造に挑戦しました。それはまぎれもない事実ですが、彼も大阪の商売人です。
そのような思いを持ちつつも、ウイスキーという事業は、それがきちんと回り出せば、それなりに利益が出るものだという見通しもどこかにあったのでしょう。だからこそ、10年、20年という長期視点で投資し続けることができたのではないでしょうか。
たとえば、同じ酒類でもワインはブドウが原料のため、季節性があります。しかし、ウイスキーは、ある程度の在庫を蓄えておく必要はありますが、1年中、しっかりとつくり続ければ、季節に左右されず、在庫を持ちながら、利益を積み上げていくことが可能です。そういったメリットを、創業者やその後の経営者もわかっていたからこそ、あきらめずにチャレンジし続けたのだと思います。
関灘 初の国産ウイスキーをつくるという挑戦は、まさにロマンであるわけですが、最初の投資で工場をどこに建てるか、水をどうするかなどは、どのように決めたのでしょうか。
鳥井 これはある意味、偶然ですね。当時の技術を活用し、できるだけ良い土地を探したのだと思いますが、京都郊外の山崎という場所の土地が手に入り、そこにたまたま、最良の水があった。「白州」ブランドの蒸溜所がある山梨県の北杜市も水質が良く、水が豊富にあったので、ミネラルウォーターの「天然水」の工場をつくることもでき、それも非常に幸運でした。
関灘 ウイスキーは、自然の力なくしてつくることはできません。だからこそサントリーさんは、使命として「人と自然と響きあう」という言葉を掲げていらっしゃる。商品や事業を成功に導くためには、商品の源泉となる自然の恵みへの感謝を忘れてはいけないと。
鳥井 まさしくその通りです。白州蒸溜所の標高は約700メートルで、山崎蒸溜所より高い位置にあります。そのため熟成が早く、山崎とは違うテイストのウイスキーができあがった。これもサントリーにとっての強みとなりました。当時社長の佐治敬三(さじ・けいぞう/1919〜1999年)が、白州に蒸溜所を建てた時、標高の違いによるウイスキー原酒の味わいの変化を、どの程度、見越していたのかどうかまではわかりませんが、これも本当に自然の恵みとしかいいようがありません。