繊維部門で新人の仕事を
4年半やり続けた岡藤正広
東京大学経済学部を卒業した岡藤正広が伊藤忠に入社したのは1974年のことだった。
生まれたのは大阪。実家は卸売商である。戦地から復員した父親が戦後、百貨店の食堂に野菜などを卸す仕事を始めたのだった。
商売は悪くはなかったが、大金をためるほどではなかった。鮮魚や青物の卸売商は市場の仕入れは掛けで買える。
一方、卸した先の百貨店は現金で払ってくれた。キャッシュが先に手元に入るから、ついつい気が大きくなって使ってしまう。岡藤の家には年末になると、借金取りがやってきて、母親がおろおろしながら応対をしていた。
それを見ていた彼は考えた。
「会社員になろう。そうしたらうちに借金取りがやってくることはない」
高校3年の時、父親が病死した。現役で大学入学できればよかったが、体を壊したこともあって2年間、浪人してしまう。その間、彼は働く母親を間近に見ながら勉強した。愚痴もこぼさず懸命に働く母親を見て、大学を出たら、そばにいようと決めた。
母親がいる大阪で仕事をしよう、苦労をかけた母親に報いるには大阪に本社がある会社で、そして、なるべく給料がいいところがいい…。
東大にいた頃、ささやかれていたのは「総合商社に入って海外勤務をすれば、家が一軒建つ」といううわさ話だった。
「商社へ行くしかない」
そう思った岡藤は三井物産、住友商事、丸紅、伊藤忠を受けた。