戦後は、過度経済力集中排除法の施行に伴い、グループの再編成に携わるが、その中で持ち上がったのが「東横映画」という映画製作会社の経営再建だった。大川は経営不振だった太泉映画会社と提携して東京映画配給という配給会社をつくり、3社を合併して「東映」という新会社を発足させ、社長に就任した。51年のことだ。しかし、東映の経営は火の車。借金まみれで利子の払いにも苦労する状況で、大川としては、他に誰も社長のなり手がいない中、渋々引き受けたのが実態だった。
当時、東宝の創業者である小林一三と五島の間で製作・供給面での業務提携が行われたが、東宝と東映では作品のカラーも客層も違う。次第に東宝直営館で東映の作品が冷遇されるようになった。そこで大川は52年、東宝と決別し、自立路線を選ぶ。全作品を自社製作する「全プロ」という方式で、時代劇を中心に製作本数を引き上げ、2本立て興行で快進撃を実現した。
そんな経緯を、大川は「週刊ダイヤモンド」1958年1月25日号で振り返っている。東宝との決別から6年がたっていたが、すでに赤字解消、借金返済を終えており、「今までの苦労がようやく報いられた」と感慨深げに語っている。
ただし日本の映画観客人口は、この記事が掲載された58年の11億2745万人がピークとなった。この後、お茶の間にテレビが普及し始め、映画は娯楽の王様の座を奪われる。大川は「テレビは1200万台程度で普及の頂点が来る」と予想していたが(『東映を創った大川博、鉄道官僚から映画業界へ「3つの転機」(後編)』参照)、今となってはその見立ては甘過ぎたと言わざるを得ない。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)
東横電鉄会長の五島慶太に
「税法改正と会計の処理」を講義
確か、1935年の5月ごろだったと思う。当時、鉄道省の監査官であった私は、東京横浜電鉄(現東急電鉄)へ会計監査に行くことになった。本社は、国鉄(現JR東日本)目黒駅に近い、小高い丘の上にあった。
社を訪れると、いきなり専務室に通された。机の前には恰幅のいい男が、デンと腰を据えている。頭はザン切リ、まさに精悍そのもの。これが、専務時代の五島慶太さんであった。
今にして思えば、五島さんと私との最初の“出会い”だったわけだが、もちろん、どちらも気に留めていようはずがない。
そのころの東横電鉄は、自動車会社を合併したり、目蒲電鉄(目黒蒲田電鉄:現東急目黒線・東急多摩川線)との合併に乗り出すなど、五島さんの積極政策で、どんどん拡大されていた頃である。
その後私は、何回か五島さんとお会いしたことがあったが、あくまでビジネスライフの上であり、親しくお話をするようなことはなかった。