大川 博東映社長
 前回に続き、鉄道業界から映画産業に転じた東映社長、大川博の「人生の転機」に関する談話記事である。「ダイヤモンド」1962年7月23日号~8月20日号にわたって掲載された全3回の記事を、前後編の2回に再編集してお届けする。

 鉄道官僚時代から経理畑で鳴らした大川は、東映の再建でも手腕を発揮し、赤字解消、借金返済に成功する。しかし一方で、当時の東映を襲ったのがテレビの台頭だった。60年代に入り、テレビは冷蔵庫、洗濯機と共に「三種の神器」と呼ばれるようになっていた。そんな中、日本の映画観客人口は、58年の11億2745万人を頂点として、年々減少。この記事が掲載された62年では6億6227万人とピーク時から約半減。明らかに斜陽の道をたどっていた。

 大川は「当面の映画の敵であるテレビを自分の手でやることにした」と、57年に日本経済新聞社、日本短波放送(現日経ラジオ社)、旺文社などとの共同出資で日本教育テレビ(現テレビ朝日)を設立した狙いを語っている。そして、「映画だけの東映でなく、映画を中心に関連事業を大きく抱擁した大東映として、転機を乗り切ろう」と意気込むのである。

 もっとも、テレビの普及に関して大川の“読み”は、多分に甘い。いわく「テレビの台数は無限に増えるものではない。現在、日本全国には1100万台くらいのテレビがあると推定されている。私は1200万台程度で、テレビ普及の頂点が来るのではなかろうかと思う。だから、テレビの影響で、映画観客人口が減少するのは、ここ1年半~2年くらいではないだろうか」。

 実際は1200万台がピークどころか、記事が出た翌63年にNHKのテレビ受信契約件数は1500万台となり、64年の東京オリンピックを機に白黒テレビの世帯普及率は90%に達した。カラーテレビも70年代に入ると普及率は90%を超え、映像メディアの主役の座を映画から奪っていった。

「テレビ普及が頂点に達したときにこうした努力が実れば、映画に巻き返しの季節が来ると思う」という大川の見立ては、少々甘かったことを、今を生きるわれわれは知っている(ただし、映画観客人口は96年の1億1957万人を底に、その後は増加に転じ、2019年は1億9491万人)。

 ちなみに大川は47年、東京急行電鉄(現東急)の取締役経理部長だった頃にプロ野球に参画し、東急フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)のオーナーに就任。後に東映フライヤーズと球団名を改め、71年に亡くなるまで球団オーナーを務めた。61年に読売ジャイアンツの監督だった水原茂を招聘する際、「金は出すが口は出さない」と言って口説き落とした逸話が残っている。このセリフはその後、プロ野球に限らず、現場に介入しない“理想のオーナー像”を表す常とう句として使われるようになった。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

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工夫と努力によって
転機を意義あるものに

1962年8月20日号より
1962年8月20日号より

 東映入りをして、私がいの一番に手を付けたのは、経理面の合理化であった。

 実をいうと、私は、五島さんから最初に話のあった頃から、映画事業の客観的分析に取り掛かっていた。そして、3社の業績不振の根本的原因が経理面にあることをつかんでいた。

 自分は映画そのものについてはなんにも知らないが、経理のことには詳しい。映画だって企業だ。まず経理面を合理化し、借金追放、赤字征伐から、東映を再建しようと決心した。そこで、社長に就任すると同時に、これを実行に移した。それは成功した。

 以来、私は今日まで、東映社長として映画事業に携わっている。