健康オタク吉宗
庶民にも気配り

徳川家康の肖像画「家康公肖像」徳川家康の肖像画「家康公肖像」(国立国会図書館デジタルコレクションのデータを加工)

 病に倒れ、道半ばで命を落とした武将は少なくない。成功するには、ある程度の節制が求められていたようだ。その意味で、自身の欲望や暮らしを厳しくコントロールできたのが、江戸幕府を開いた徳川家康だという。75歳まで生きた。早川教授はこう解説する。

「家康は普段から美食もせずバランスの良い食事を取っていた。漢方薬について自分で調べ、処方するといったことまでして、健康には気を配っていました。今で言うセルフメディケーションの先取りとも言えます。鷹(たか)狩りや乗馬に出向き、適度な運動も習慣になっていたようです」

 若き日のライバルである武田信玄や上杉謙信、北条氏康は40~50代でこの世を去り、家康の頭を押さえていた織田信長や豊臣秀吉も他界した。最後のライバル、前田利家が亡くなると、家康を脅かす者はいなくなる。長生きしたことで天下を勝ち取れたともいえる。

 その家康を理想に仰ぎ、幕政の改革に取り組んだのが8代将軍の徳川吉宗だ。旗本の大岡忠相ら、有能な人材を抜擢(ばってき)。商人の力を借りて新しい田を耕したり、年貢の計算方法を変えたりして収入アップを図った。

 目安箱を設けて集めた庶民の意見が反映されたのが、貧しい市民を対象にした小石川養生所だ。医学博士で東京通信大の植田美津恵教授は言う。

「小石川養生所は、幕府の医師や町医者が無料で診察や薬の処方をしました。また吉宗は薬園を開き、そこで採れた薬草を自ら調合し、家臣や庶民に与えたといいます。家康を崇拝していただけに『健康オタク』な面がありました。特徴的なのは、自分だけでなく庶民の健康にも目を向けた点です。今にも続く人気の理由でもあるでしょう」

 吉宗が慕われていたことを示すエピソードが晩年にある。63歳の時に脳卒中にかかり、後遺症で不自由な体になると、家臣が介護やリハビリで懸命に支えたという。

「将軍になる前から仕えた家臣が書いた『吉宗公御一代記』によれば、吉宗が移動や食事をする時には、マヒした右手を支えて介添えしたり、毎日マッサージを欠かさなかったり、亡くなるまでの5年ほど、多くの家臣がつきっきりで献身的な介護やリハビリを続けました」(植田教授)

 江戸時代に大きな戦乱がなくなり、社会も安定し始めると学問や文化が発展し、庶民も体や健康のことに目を向ける余裕が出てくる。健康本もたくさん作られ、“ベストセラー”もある。