その理由は、「人間は、音を聴いてから行動するまで最低でも0.1秒かかる」という医学的なデータがあるからだという。そのため、0.1秒より速く動いた(足が離れた)ならば、「ピストルが鳴る前に、予測して動いた」という解釈になる。「それはずるい」というので、「0.1秒以内に足が離れたらフライング」と決められている。

 これは、ピストルとスターティングブロックが電気的につなげられ、違反があればすぐスターターに合図が届くシステムが開発されたから運用できる規則だ。だが、このルールが、ごくまれにだが、天才スプリンター、あるいは天才スターターを奈落の底に突き落とす悲劇を生み出している。

「音を聴いてから0.1秒後にしか動けない」と決めつけているが、それより速く動く能力を持つアスリートがいても不思議ではない。実際、アレンは今大会の準決勝で、リアクションタイム0.101秒という抜群のスタートを切り、13秒09で3組2位、全体4位のタイムで決勝進出を果たした。限りなく0.1秒に近いリアクションタイムを2度も続けたアレンが、常人を超える反応速度の持ち主であることを勝手に否定していいのだろうか?

過去の大会でもあった!
フライングで「理不尽な失格」

 この理不尽なルールの被害者は、アレンが初めてではない。記憶に深く刻まれているのは、2003年パリ世界陸上、男子100メートルに出場したジョン・ドラモンド(アメリカ)だ。2次予選でドラモンドはフライングで失格を宣告された。

 ところが、この判定に納得せず、退場を命じられても応じなかった。ドラモンドは激しい抗議を続け、ついにはコース(トラック)の上に大の字に寝転んでしまった。その間、レースは中断。スタジアムは騒然とした空気に包まれた。

 実況席も、ルールに従わないドラモンドを非難する論調だったように記憶しているが、私は見ていてずっと、ドラモンドのやるせない思いが伝わってきて、一方的に責める気になれなかった。彼は本当に「ピストルの音を聴いてからスタートした」「絶対にフライングはしていない!」という確信があるのだと感じた。その時、冒頭で説明したルールのカラクリがあると私も初めて知った。

「ピストルが鳴っても0.1秒は動いてはいけない」という奇妙なルールは、世界一速い男を決めるスプリントレースにあって、世界一と言っていいほど凡庸な制約だ。到底受け入れがたい、矛盾そのもののルールではないか。100メートルを9秒台で疾走する、常人にはあり得ない次元のスプリンターを、常人と同レベルの反応速度で縛る滑稽さに、なぜ気づかないのだろう?

 今大会でも、このルールでレースを追われた選手はアレンだけではない。女子100メートル準決勝で、アルフレド(セントルシア)が0.095秒、ガイザー(バハマ)が0.093秒でのリアクションタイムで失格している。

 国内の大会でも日本選手が失格になった例はある。だが、「国際ルール」には絶対服従なのか、規約改正を提言するでもなく、このルールに従い続けている。