オリンピック、世界選手権共に、陸上短距離種目で日本人初のメダリストとなった末續慎吾氏。ところがそんな陸上界のスーパースターは、2008年の北京オリンピック後まもなく、ひっそりと姿を消した。世界と対等に戦うトップアスリートとして自らを追い込み続けた結果、体も心も全てが限界を超えてしまっていたという。
この度、末續氏は初の著書『自由。──世界一過酷な競争の果てにたどり着いた哲学』を刊行、当時の様子を「走るどころか起き上がることさえつらく、自分という意識すらどこかに飛んでいきそうな苦しさだった」と語る。それでもなお、9年の歳月を経て再びトラックに立ち、走り続けているのはなぜか。コロナ禍にこそ響く、脱・勝利至上主義の哲学とは(構成:加藤紀子、写真:山口真由子)。
現役陸上選手
1980年生まれ。熊本県出身。五輪、世界選手権を通じ、短距離種目で日本人初のメダリスト。九州学院高等学校から東海大学、ミズノ、熊本陸上競技協会を経て、現在は自身のチーム「EAGLERUN」所属。星槎大学特任准教授、アシックスジャパン・アドバイザリースタッフも兼任。2003年世界陸上パリ大会で200m銅メダル。2000年シドニー、2004年アテネ、2008年北京の五輪代表。北京五輪では4×100mリレーで銀メダル獲得。2017年に9年ぶりに日本選手権に復帰。2018年にEAGLERUNを立ち上げる。生死をかけ、さまざまな経験を経てきた稀有なオリンピアンで最年長現役選手だからこそ、さまざまな人たちとともに走り合いながら伝えていける大切なことがある。そんな思いとともに、これからの新たなスポーツ界のあり方を提案しながら、現役選手活動、後進指導、陸上クラブ運営、講演会、オリジナルイベントの実施、メディア出演など、多岐にわたって活躍を続けている。
EAGLERUNホームページ https://eaglerun.jp
末續慎吾公式ブログ https://ameblo.jp/eaglerun/
インスタグラム https://www.instagram.com/suetsugu_shingo
20代の時に溜め込んでいた
「言葉にできない違和感」
──『自由。』というタイトルにはどんな想いを込めたのですか。
末續慎吾(以下、末續):僕は北京オリンピックが終わるまで、1位になること、メダルを獲ること、新記録を出すことを目標に、全身全霊で世の中にぶつかってきました。一方、そうした中で、いつも何か違和感のようなものを感じずにはいられませんでした。
それが、北京オリンピックでメダルを獲った時、その違和感とは「不自由」さだったとようやく認識できたんです。自分はずっと社会の価値観に束縛されて生きてきたことを初めて自覚しました。
何のために自分は走るのか。なぜここまで自分を追い込むのか。
その答えは、勝つこと、メダルを獲ること、記録を出すこと。それが正解だという前提で自分の周りの社会は動いていたし、僕もそれが自分の夢を叶えることだとずっと信じていました。
でも実際にメダルを手にしてみたら、それが僕にとっての正解だとはどうしても思えなかった。その頃から、「果たしてみんなが正しいということが本当に正しいのかな」と、疑問を感じるようになりました。
今でも日本は同調圧力が強く、同じような違和感や不自由さを感じて生きている人がまだすごく多い気がします。インターネットによって、人はもっと自由に自分を表現できるようになっているはずなのに、それでもこの社会には何か鬱積した不自由さを感じてしまうんです。
だからこそ、何が正しいか、何が正解かは自分で選べるのだということ、僕らは皆、自分の思いや考えを忖度なく表現できる尊厳を持っているべきだという想いを込めて、「自由」という言葉をタイトルに選びました。
東京オリンピックを目指す
後輩アスリートへの想い
──この本では、末續さんのようなトップアスリートが、そうした不自由な環境の下、世界の大舞台という夢に向かって自身を限界まで追い込むストイックな様子が伝わってきます。東京オリンピックは延期になっていますが、代表候補の選手たちの心境は今、どのような状態にあると思いますか。
末續:複雑でしょうね。これまで不自由さを受け入れてでも全力で頑張ってきたからこそ、オリンピックの舞台で競技をしたい気持ちは、今もなお強く持っている人が多いと思います。
その反面、国民感情としては約8割の人が「できればやらない方がいい」と思っているのも現実です。これは人命に関わることですから、無理はありません。
コロナ禍以前までは、日本中が国を挙げての応援モードだったのに、もはや今となっては100%応援されているわけではないことも彼らは肌で感じているはず。だからこそ、複雑なのでしょう。
──1年の延期というのは、アスリートの心身にはどのような影響を及ぼしていると思いますか。
末續:例えば仕事でも勉強でも、何か大きな目標があって、そこにピークを持っていこうと色々と我慢してものすごく頑張ってきたのに、仮に急きょ1ヵ月延期になるという状況を想定してみてください。「あれ?」という肩透かし感、「あと1ヵ月、一体どうすればいいのか」という脱力感を感じませんか。それが1年も先延ばしになり、先ほど言ったような国民感情に加えて、コロナ禍による景気の冷え込みで、経済的に競技を続けること自体が厳しい選手も増えています。
今、多くの選手が、「いったい自分は何のためにこの競技をやっているのか?」と悩んでいるはずです。
ただ、僕から見ると、くしくもこのコロナ禍を機に、彼らはアスリートにとって最も根本の問いに行き着いたようにも思えます。