岡藤正広会長Photo:JIJI

戦後8代目の社長に
就任した岡藤正広

 2010年4月、岡藤正広は伊藤忠の戦後8代目の社長に就いた。その時の気持ちを後にこう思い出している。

「4月某日、私は重い足取りで大阪から上京しました。それに先立つ2月11日、当時の小林社長から次期社長への就任を告げられていました。冷たい雨が降りしきる中、150年を超える歴史、連結60,000人以上の社員とその家族の生活を担う責任の重みを肩に感じたのを今でも鮮明に覚えています。それまで当社の歴代社長の多くは、東京本社の経営企画畑が就任しており、繊維カンパニーからの就任は実に36年ぶりのことでした。当時の足取りの重さは、東京から遠く離れ、規模も小さくなった大阪に本拠を置くカンパニー出身という、傍流意識のようなものがあったからかもしれません」(『統合レポート』)

 ここにあるように入社してから社長になるまで、岡藤は大阪勤務だったし、繊維ビジネスしか体験していなかった。海外駐在もなければスタッフ部門の勤務もなかった。

 業界では総合商社のトップになるには海外駐在と経営企画部門の2つを経験するのが当たり前とされていたこともあり、業界各社は「変わったタイプの社長が出てきたな」と受け止めた。つまり、岡藤は同業他社からは、さほど知られた人物ではなかった。

 だが、彼の実績は伊藤忠社内では群を抜いていた。同社はディビジョンカンパニー制を取っているが、04年に繊維カンパニープレジデントになってから09年まで同カンパニーは5期連続で増益を達成した。繊維業界が伸びていない時代だったにもかかわらず、岡藤は業績を伸ばし続けた。

 紳士もののスーツ生地をブランド化したことにあったように、現場の営業マンとしても優秀だった。1986年から98年まで13年間、毎年、社長褒章を受けている。

 マネージャーとしても、現場の営業マンとしても手腕を発揮し、しかも、ユニークだった。考え方が人と少しだけ変わっていたともいえる。形式よりも実質本位の商人の資質を持った男だった。

 岡藤が社長になって初めての新年、東京本社の社員の前に立ったときのことだ。

「社長の岡藤です」と切り出した後、「社長あいさつというのは聞いていて面白いものではないから」と短時間で話を切り上げた。

「それより、みんな元気を出していこうやないか」

 舞台から獅子舞が出てきて、正月の舞が始まった。

 退屈な新年のあいさつを予期していた社員たちはぽかんとしたが、何かこれまでにはないことが起こる。そして、それは自分たちにとっては悪いことではないと直感したのだった。