1880年代後半はアメリカにおける電力事業の黎明期に当たるが、この時、「電流戦争」と呼ばれる、2人の天才科学者の確執があった。すなわち、発明王ことトーマス・エジソンは直流システムを主張し、ニコラ・テスラは交流システムこそ優れていると訴え、互いに譲らなかったのだ。最終的には、ナイアガラの滝の発電事業でテスラの交流発電機が採用され、以降交流が主流となる。
この電流戦争は日本にも及んだ。それは、エジソンの発明に感銘を受け東京電燈(東京電力の前身の一つ)設立を働きかけた藤岡市助(工部大学校教授)は、みずから技師長になって直流システムを採用し、一方、のちに大阪電燈(関西電力の前身の一つ)の技師長となる岩垂邦彦は交流を選択した。実を言うと、テスラも岩垂もエジソンの下で働いていたのだが──。この岩垂邦彦という男、日本で最初の外資系企業、日本電気(NEC)の創業者であり、いまあらためて評価すべき「技術者企業家」の先駆者といえる。
岩垂は、1857(安政4)年に現在の福岡県で生まれ、工部大学校電信科(現東京大学工学部)を卒業した後、工部省電信寮(日本電信電話の前身)の技師となる。4年後の1886(明治19)年、貿易会社セール・フレーザー商会の紹介状を手に渡米し、エジソン・マシンワークス(現ゼネラル・エレクトリック)に入社。トーマス・エジソンの下で働く。
そこに、電灯事業を目論む大阪財界の意を受けて外山脩造(阪神電鉄創業者)らが訪ねてくる。岩垂はあえて交流システムを薦め、エジソンのライバル会社であるトムソン・ヒューストンから交流発電機を購入する。恩義のあるエジソンを裏切る形となったが、結果的に、岩垂は日本の「電流戦争」の勝者となる。岩垂の国際的視野と合理性を貫く姿勢が成功をもたらす一方で、のちに大阪電燈を去り、岩垂電気商店を創業するきっかけにもなる。
その2年後、1896(明治29)年に始まる第1次電話拡張計画を機に、電話機器の需要が急増し、高田商会、大倉組、沖電気らは、当時世界最大の通信機器メーカーといわれたウエスタン・エレクトリック(WE)の製品を輸入販売するようになる。岩垂も、WEの販売代理店として、さらにWEの信任を得て日本側との仲介者として活躍する。
実はこの時、WEは日本における提携先を探していた。1897(明治30)年3月、WEは沖電気に販売代理契約を提示し、岩垂は沖電気の創業者・沖牙太郎とWEとの仲介者として交渉に当たった。しかし残念ながら、交渉は決裂してしまう。その帰路、岩垂は自分が新会社を立ち上げ、WEと提携することを提案する。これは歓迎され、1899(明治32)年、日本で最初の外資系企業、日本電気の誕生へと結実する。以上が、創業までのあらましである。
明治時代には、岩垂をはじめ本格的に電気工学を学んだ技術者たちが企業家としても大いに活躍した。前述の藤岡市助は白熱電球製造の先駆者であり、現在の東芝の源流となる。野口遵は、壮大な構想による電気化学コンビナートを展開し、その事業の系譜は現在の旭化成、信越化学工業などにつながる。また、小平浪平は、鉱山の修理工場からスタートして、日立製作所を創業した。このように、近代技術の知識を基礎に持ちつつ、旺盛な企業家マインドを発揮する技術者企業家たちが次々に登場し、日本の産業発展に大きな役割を果たした。
これら明治期の技術者企業家の活躍は、現在でも魅力的である。技術の主流はデジタルに変わったとはいえ、世界経済を動かしているのは先駆的な技術に着目した企業であり、そこには新しい技術者企業家の姿がある。日本でも盛んにスタートアップや大学発ベンチャー育成が試みられている。岩垂ら技術者企業家を継起的に生み出した時代から、そのためのヒントが見えてくるはずである。
◉構成・まとめ|岩崎卓也 表紙イラストレーション|ピョートル・レスニアック
謝辞|本イラストレーションの制作に当たっては、NECコーポレートコミュニケーション部にご協力いただきました。