アントニオ猪木の知られざる一面、ソ連の高官に見せた「驚きの交渉術」アントニオ猪木さんは、プロレス団体の経営者として、国会議員として、常人には及びもつかないタフネゴシエーターぶりを発揮していた Photo:Etsuo Hara/gettyimages

10月1日に亡くなられたアントニオ猪木さん。「元気があれば何でもできる!」「1、2、3、ダァー!!」の言葉で日本中が元気をもらっていました。そんな“強く、明るく、前向き”なイメージのアントニオ猪木さんが、プロレス団体の経営者として、国会議員として、常人には及びもつかないタフネゴシエーターぶりを発揮していたことはあまり知られていません。そこで今回は、アントニオ猪木さんの著書『最後に勝つ負け方を知っておけ。』(青春出版社)から、アントニオ猪木流・不利な状況を跳ね返し、多くの人を味方につける闘魂流・交渉の極意をご紹介します。

みんなが反対するから俺はやる

 1989年、俺が参議院選挙に出ると言い出した時は、みんな「冗談でしょ」って顔をした。いくらプロレスで知名度はあっても、当選なんかするわけがないだろうと。

 でも俺はみんなに言った。「これは天の声だ」と。

 俺の父親は、横浜で市会議員をしていた。吉田茂(元総理大臣)の自由党結成に参加して、財産をつぶしてしまったくらい政治が好きだった。だから俺の血の中には、政治家の血が流れている。プロレスラーになってからも、いつの日か政治家になるのが夢だった。

 だから、まわりが選挙出馬にどんなに反対しても、俺が取った行動には自分自身強い必然性があると思ったし、当然、口には出さなかったが、勝てるという自信もあった。俺にとっては、そういった意味を含めての“天の声”だった。

 もう一つ、「ソ連のアマレス五輪金メダリストたちをプロレスラーにする」というプロジェクトを打ち出した時も、やっぱりみんなは大反対だった。「そんなこと、できるはずがない」と。

 なにしろ当時のソ連という国は、鉄のカーテンに閉ざされた国。なんにもわからない。いまだってソ連人(ロシア人)はわからないと思っている人は多いと思う。そんなところへ乗り込んで話をつけようというのだから、みんなが「やめとけ!」の大合唱。